大ママ | なかがわ・そとがわ

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AND ENDLESS 中川えりか のブログ

大ママ。
突然のお知らせに驚いています。
春にひ孫を連れて会いにいこうと思っていました。
大ママのエプロンの腰紐をいたずらで解くと、「あ、だれだー!」と必ず言ってくれるのが好きで、
随分大きくなってからもそのいたずらをしましたね。
「素晴らしいわね」と褒めてくれるのが嬉しくて、いろんなことを話しました。
最近では、血色のいいお顔の写真が送られてくるたび、ほっと一安心していました。
まだ信じられません。
あなたの孫で幸せでした。
長い間、ありがとうございました。
少し休んでいてください。
こちらでやることやって、また会いに行きます。 
中村倫枝さん
2022年1月18日
享年97歳


わたしの祖父母たちのなかで、結局、一番長生きだった。
下関の女傑、三枝家の長女としてその逸話は多い。
とにかく気の強い人だったと聞くが、
私が孫として出会ったころは、既に優しいおばあちゃんだった。

幼稚園のころは、ほぼ毎日私らの世話をしに電車に乗ってやってきていたという。
一番馴染みのある人だ。
記憶がないくらい小さな頃からずっと。

祖父が亡くなる少し前から認知症を発症。
施設を訪ねると、
自分の育った環境を教えてくれた。
お父さんはすごく厳しい人でね、、という話を繰り返し繰り返し。
会話に詰まると、また繰り返し。
認知症の、繰り返すというのは、
ある種の社交術なのではないかなと、涙の中で思った。
最後に直接会えたのは、2019年。
ひ孫にあわせたい、と、スケジュール強行した。
私のことはもちろん、母のことすら、
もうわからなくなっていたが、
赤ん坊の存在はすごくニコニコするものだったようだ。
「ぼくちゃん、可愛いね〜」と終始気にかけてくれていた。


大ママの時間は、永遠に止まっているのだと思っていた。
そんなわけはないのだけれど。
心は時間に取り残されて、
体は動かなくなっていく。
杖をつくようになり、
車椅子になり、
ベッドから出られなくなる。


お葬式には行けなかった。
冒頭の手紙は、弔電の内容だ。
定型文を送っても仕方あるまいと、思うままに文章を書いたら、後日の請求額に驚く羽目になった。

四十九日にも行けなそうだ。
息子と行く気マンマンだったが、国内の移動も今は慎重にならざるを得ない。
こういった儀式は、遺された者のためのものだ、と、本当に思う。
無理して行っても仕方ない。
しかし、ひとつも行けないせいか、ずっと気になり続ける。


大ママは、黄緑色と薄紫色のイメージだ。
清潔感があって、朝とってきた野菜の、フレッシュな感じ。

下関の家にいくと、
朝7時には朝食が並び、
特別なことがない限りは、
夜6時には夕食が並ぶ。
ややもすると不規則になってしまいがちな人たちの生活を、
安心できる正確さで、
規則正しいきちんとした生活にしていたのは、
もしかしたら大ママ一人の胆力であったかもしれない。

大ママは、生活、であった。


忘れられる時が、本当の死なのだ、という。
こんな風にじっくりじっくり思い出すことは減るかもしれないけれど、
体に根付いた「生活」は、
簡単にはなくならない。
大ママがくれた規則正しさ、その気持ち良さは、
これからもずっと続いていく。


大ママ。
ありがとう。



追記
訃報があった朝、
偶然にもテレビで金子みすゞ特集をやっていて、見入っていた。
虫の知らせ、というものはあるなと思った。