天の刻 | Mi diario

天の刻


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 私はいろいろな作家の本を読むというよりは
決まった作家の本をしつこく読むほうです


ノンフィクションよりはフィクションを好み、
物語の内容よりは言葉で事柄、物事、人物のディテイールを丹念に積み重ねていく
作家を、

また、文学史で谷崎潤一郎のように耽美主義と謳われる作家を好み、
耽美寄りの作家を選んで読む傾向があります


そんななか、小池真理子もよく読んでいました
長編よりは短編のほうが好きですが
ただ、読んだ端から忘れていきます

どうしてだろう?

たぶん、程よく陳腐で程よく官能的、程よく美しく、心理サスペンス的
全部、程良いので印象に残らないんでしょうね


ほら、BarでBGMとして流れるピアノの生演奏みたいに
お酒を飲みながら会話を愉しむのに、邪魔にならない、美しい、耳に心地よい
あういう演奏って一切、覚えないでしょう?
聴いた端から忘れてしまう


小池真理子の短編もわたしにとってはそんな趣があります


けれど、小池真理子の「天の刻」だけは印象に残っていました
20代後半のころ読んだのですが

たまたま電子書籍で見つけて再読したのです


天の刻、(刻と書いて「とき」と読みます)は6作品が収められた短編集です
6作品どれもよいとは言い難いのですが
収められた短編集には共通したテーマがあります

もう若くもない、かといってまだ年を取り過ぎていない、30代、多くは40代の
女性が主人公であり、死と性をテーマにしています


ただ、「死」は現実的な生々しい「死」というよりは
観念的、抽象的な「死」の概念として

性と死は不思議なことに、セットとして文学作品のテーマになることが多いです

谷崎潤一郎、澁澤龍彦、ジョルジュ・バタイユ、マルキ・ド・サド


この「天の刻」は上記の作家の作品ほどアウトローでもマニアックでも極端でも
ないですもっと軽い。ウエハースのような軽さと儚さです。


6編のなかでいちばん好きなのは本の題名にもなっている
「天の刻」


これを読んだのが26か7歳のときだったのですが、
わたし、そのころ身近なひとが衝撃的な亡くなり方をして
常に「死」について考えていたころでした。

そうして実家の片づけをひとりで数ヶ月間していた時期も重なりました。

遺品の片づけを家一軒まるごと、したことがある人ならばわかると思うのですが
遺品の処分や片付けって本当に大変。


実家は100平米くらいの極端に広くはない一軒家なのですが
一軒家って下手に収納場所があって、とにかく物が多くて、処分するのに
お金も時間も労力も随分かかりました。


そうして、思ったものです。「物」ってそのひとをすごく物語るんですよ。
どこに価値観を置いて、どういうことを大事に思っていたのか
どういう傾向の性質があるのか、
「物」はその人の魂が宿り、人生の歴史を物語ります。


私は、そういうことに一切感傷を抱かない女なので
機械的に使えるものと売るものと処分するものを分けていましたが

叔母がたまに手伝いにこようものなら、大変、
感傷に耽って涙目になるので片づけが進まないの笑。

いまとなってはそんなふうに亡くなった人たちの片づけをしたことも
もう、思い出になってしまったことだけど、
その頃は私も彼女もそれぞれに傷ついてて、ピリピリしてましたね。

時間て大事ですね。



さて、話がそれましたが
「天の刻」は自分の死のための支度をする、中年女性のお話です。

決して自殺の準備をしているわけではなく、いつ死んでもいいように、
身のまわりに余計なものは増やさないで整理して、処分している女性なんです。

面白いでしょう?気持ちよく暮らすために、生きるために余分なものを処分するのではなく
いつ死んでもかまわないように身辺の整理をしている
女性の話なんです。


でも、この本を初めて読んだ当時の私もそれに近い考え方をしていて
読んでとても共感できたんです。

私が、明日亡くなっても、どこに何があって、そして親しい人たちの手を
煩わせないように余計なものは一切持ちたくない、
また、私の持ち物によって、私のことを分析なんかされたくない
そんなふうに思っていたからです。


小池真理子のこの短編集に描かれてる全編の「死」の概念が
わたしのそれととても近くて


きっと、多くの人に共感される作品ではないと思う。

だって、作中に

「これでいつ死んでも大丈夫、心ゆくまで安心して死ねる、という、
 不思議な満足感がわきあがる。」
とか

「いつ死んでも心残りはない。そう思って、蕗子はうっとりする。」
とか

あるんですよ。笑、全然共感されなさそうでしょ。
ま、さすがに私も今は幼い子供がいるのでそんなふうに思うことはないのだけれど

きっと主人公の蕗子と同じ年齢(47歳)ぐらいになったら
わたしもこんなふうに思いながら暮らすんじゃないかしら、
たぶん、こうなる。私の考え方や性質の傾向からして。

彼女は
何にも「天の刻」があると思っていて、流れに逆らわず受け入れる生き方をする女性です。

というか、この短編集、全編に共通する主人公の女性の生き方です。
彼女たち驚くほど、人にも物にも執着をしないで生きる人々です。

何に対してもそれほど執着せずに、受け入れるという生き方の是非を
簡単には判断できないと思います。

むしろ私は、この世で生きていくためにこだわり、人にも物にも執着し、「死にたくない」と
強く願い、欲張り、足掻き、立ち向かって生きる人の方がいいのかもしれないって思ってるほうです。


そうは思っているけれど
私の薄情さや、執着を嫌う(というか、執着に囚われることが怖い)、怠惰な性質は
やはりこの短編集の女性たちの考え方に心地よさを
覚えてしまいます。

名作とは思わないむしろ、なかには陳腐で退屈な短編もあるのですが
こういう概念を抱きながら、生きるひとたちもまたいるということ、
また「死」を決して否定的に捉えていない概念は面白いと思います。



***

写真はバランコ区のスタバ。

照明の落としたカフェって好きです。
特に夏は。

窓や開け放たれた扉から溢れんばかりの外の
光が見えるでしょう?

その対比が好きなの。

まるで自分はその賑やかで光あふれる渦中には入らないで
薄暗く静かで落ち着いた場所からそれを眺めてるみたいな気になる。