誰にでも共通して「ある」ものがある。


それは長所と短所だ。



だからこそ、長所を生かして生きていけた方が、楽に人生を泳いでいけるはずである。


しかし、どうだろう。

我々はいつだって「ないものねだり」をしてしまう生き物ではないだろうか。


そう、誰しもが持っているもう片方。

「短所」に執着して一生をそれに費やしてしまう。



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できない。

持っていない。

得意でない。

上手くいかない。

ないないないない………、


だからこそ、欲しくなる。

それらを「ない」ままにしておくのは、罪のように感じてしまうことさえある。



たとえば「髪がない」とか「ファッションセンスがない」くらいならまだいいが、それが「仕事がない」とか「パートナーがいない」などとなると、途端に不安になったりするのが人間ではないだろうか。


もちろん、髪がない場合、本人からすれば一大事だし、たかだかファッションセンスがないくらいでもひどく落ち込んだりするものだということは理解しているつもりだ。

私が言いたいのは、とにかく「ない」に目を向けると苦しいということである。






「ゼロにどんな数字をかけてもゼロだ」とよく言うように、短所にどれだけのリソースをかけたところで、何も変わりやしない。

どんな努力も無に返すからこそ短所であり、だからこそ長所を生かせと先人は言い続けてきたはずだ。



西洋占星術の世界にも、「欠損」という概念があるらしい。

私は占星術の専門家ではないので多くを語ることはできないが、たとえば一般的な「○○座はスター性がある」「○○座は明るい」というのは、いわゆる「できる」「持っている」部分、つまり長所に当たる。


一方、欠損になると「○○座はスター性がない」「○○座は明るくない」といった、そもそも持ち合わせていない部分、いわゆる短所になる。


ないからこそ、人はそこに執着するし、欲しくて欲しくて仕方なくなり、それがなければ生きる価値すら見出せなくなってしまったりする。

それが人情というものだ。


いつものたとえだが、鳥が空を飛ぶことを放り投げて、「海で魚のように自由に泳がなければならない」と自分を呪い、必死になって生涯を魚になることに費やしていたらどうだろう。

そんな悲しいことはない。


しかし、この「ない」ものに立ち向かっている人は案外多い。






​そんな中、私の尊敬する友人は違う。


社会において成功をおさめているし、毎日がとても楽しそうだ。彼がスキップして歩いていたとしても別に驚きはしない。(身長182cmの大男)

奥様に言わせれば、毎朝のように鼻歌を歌って布団から出てくるらしい。


​この世の中に数多の人が暮らしているけれど、彼のように鼻歌交じりの人生を謳歌できている人はいったい何人いるのだろうか。

果たして、その秘訣はなんなのだろうか。



私が彼の生きざまを横から観察するに、彼には「ないものねだり」が決定的になかった。


もちろん本人に言わせれば「俺にだってあるさ」と答えるかもしれないけれど、私の目には人類の平均値からかなり剥離しているように映る。






彼が長所を使って生きている証拠がある。

それは彼がよく口にするフレーズだ。



「俺はこれができないから、こっちで勝負する」



スポーツをする時もそうだ。

「俺は○○は苦手だから、こっちのほうで戦う」と言うし、それがたとえば麻雀であっても、「ほかの人たちは○○な戦い方をするけど、俺はこうだからこの戦い方をする」などと言う。


何が言いたいかというと、自分というものをよく理解した上で、短所ではなく長所を使いきっているということだ。

彼が鳥なら、絶対に海では戦わず、空にこだわるはずだ。


「俺にはエラがないから、羽を使って空で戦う」と。


そこを間違わないことが彼の最大の強みであり、常に勝ち続ける所以なのだと思う。


言うのは簡単だが、これがどれだけ難しいことか……。

(ちなみに彼は、得意のスポーツを頑張っていたら、どういうわけかお国のとある機関の目に留まり、スカウトされたことがある。

短所に執着しないというのは簡単なことではないが、それができる人のところには不思議なお誘いがあるものなのだ)






実際、私が見てきた多くのスポーツ選手は、むしろできないことをやろうとし、できない武器を得意な武器だと豪語し、なんなら憧れの選手が真逆のタイプだったりすることも多かった。


たとえば、どこからどう見ても小技タイプなのに、ホームランバッターのつもりでブンブンとバットを振り回していたり………。スポーツ界では「あるある」の光景ではなかろうか。


そういう人が本当に多くて悲しく………、いや。


いや、これぞ愛しいかな人間というものなのだろう。そうさ、そうならざるを得ないからこそ人間なのだ。

それ故に、ほとんどの人が補欠であり、ほとんどの人が成果を上げられないということだ。


いつだって成果を上げる人はごくごく少数の一握り。

あとは有象無象で、成果を上げられないその他大勢、エキストラみたいな存在だ。だからこそ、その一握りが光り輝く。


もし誰もが成果を上げられているなら、まぶしい存在などなくなってしまう。

あなたの周りに必ずまぶしい人がいるということは、長所で生きられている人がいかに少ないかの証明なのだと思う。


私の友人は紛れもなく一握り側の人間だ。

ここまではっきりと、しかも徹底的に長所だけを使いきっている人を私はほかに見たことがない。


彼は特に20歳を超えたあたりから、まさに飛ぶ鳥を落としたような勢いになった。それもこれも、短所に執着しないという最も難しい技を彼が会得したからだと思っている。


不思議な縁なのかなんなのか、私が持っていないものを彼はすべて持っている。

私の短所は彼の長所なのだ。

だから私は彼に憧れるし、彼の活躍がまぶしい。

彼のようになりたくて努力もした。しかし、それは「ゼロに五をかけているようなものだ」と今はわかる。


私にも、もちろん何らかの長所はあるはずだ。

髪の毛だって、毛生え薬にお世話になったことがないくらいは、ちゃんと生え続けてくれている。

それだけじゃない。

これでも「笑顔がステキ」と、指で数えられるくらいには言われたことがある。無論、片手の指で十分事足りる程度だけど。





自分のもっているものを生かすこと。

それが「成功」への近道とまでは言わないが、「幸福」への近道だとは言える。


私の友人のように毎朝鼻歌を歌う人生が、不幸なわけがない。そちら側の住人になるための答えは一つ。


短所を使わず、長所を使いきることだ。




​先日、スポーツをしているところを妻に見られた。私がアドバイスをしている様を見て、「スポーツをしている時は、ホント輝くねえ」と冗談半分に言われた。

そして、その数日後、例の友人にも似たようなことを言われた。


「スポーツでも、そうでなくとも、誰かのためにアドバイスをしたり行動しているときに、能力が発揮されているように見える」と。


​人それぞれ、必ず何かしら長所はあるはずだ。

私も鼻歌交じりの朝を迎えるべく、短所に執着しない冒険をここから始めよう。


いざ、一握りしかたどり着けぬ境地へ。




まずは鼻歌の練習から。



ふんふんふん。






表情が難しい。