一つ前のエントリに関して、佐藤一光さんからコメントをいただきました。ありがたいことです。
クリティークの日本語訳なんですけどね。釈迦に説法でしょうが。
— 佐藤一光 (@kazzuaki) May 13, 2022
言葉を大切にするのはらしいが、内容関係なく十把一絡げにしているのはらしくない。https://t.co/IB3Svl35JS
ご紹介くださった「とある法学徒」さんのブログでは、「批判」という言葉が持つ否定・悪口のニュアンスが説明され、本来の「批判」はそうではないと説明されています。
世間では、批判≒否定(・(時には)悪口)のように捉え、ネガティブなイメージを持っている人もいるかもしれません。実際に、批判という言葉の辞書的意義が「①物事の真偽や善悪を批評し、判定すること。②人物・行為・判断・学説・作品などの価値・能力・正当性・妥当性などを評価すること。否定的な内容のものをいう場合が多い。」とあるように、それも必ずしも的を外したものではないでしょう。
にも拘らず、批判的検討が推奨されるのは、その説を絶対視しない(権威化しない)あるいは相対化するということを可能にするからです。つまり、自説であれ、あるいは(自己の敬愛する)誰かであれ、「神様」や「バイブル」にしてはいけないのです。
したがって、批判はその説の利点・不利点両面に光を当て、正確な位置づけを期することを目指していると言えます。
おっしゃる通りですね!
ではクリティークとは何か?ということを考えると、最初に念頭に浮かぶのはカントの三批判、純粋理性批判・実践理性批判・判断力批判で、それこそ「理性や判断とはどのようなものか」を分析する営みのことなのであって、否定や悪口ではありえない。
(蛇足ですがわたくも中学生の頃にタイトルだけを知って「カントという人はどうして理性を攻撃するんだろう?」と思ったものです。)
さて、そうしてみると日本語の「批判的検討」という言葉は、もともとは「クリティーク」の一言で言いたいことを「いやわたくしは悪口を言っているのではなくて、中立の立場で分析しているのですよ」と言わんがために「検討」という言葉を後ろにくっつけているものという印象を受けます。
(「批判的検討」を英訳すると critical review、でそれはまたちょっと違う。というのは、置いておいて。)
前回のエントリはホラティウスの翻訳が公開されていたことにわたくしが舞い上がってしまったこともあり、野口・江原・二宮の言説の内容には一切触れることをしませんでした。
だから「nyun はタイトルの「批判」という言葉に噛みついているな!」と受け取られても仕方がない。
そういうことはあるでしょう。
しかし本当のわたくし自身は、彼らの主張を一読した上で、あれらは「批判的検討」という言葉の下で勝手なことを放言する、まったくクリティークに程遠い代物である、ということを伝えたかったのですね。
さあ、ここからが本題。
あるまったく同じ言葉を前にしながらも、まったく逆の解釈、見当はずれの解釈をしてしまうことが我々人間にはしばしばあります。
それが今回、nyun と佐藤さんの間で確かに起こりました。
そしてクリティークとは本来、まさにそのような認識のずれや誤解が起こらないように、誰が聞いても(読んでも)確かだと思われる言葉を重ねていく方法のはずです。
知られているように資本論の副題は「政治経済学批判」でした。特にマルクス自身が完成させた第一部は恐るべき周到さでその方針が貫かれていることに気づかない人は少数でありましょう。
野口・江原・二宮の言説はとてもではないが、そうなっていないのです。
それらの内容がどのようにダメなのかは、いつか機を改めて論じたいと思います。