ケネーとMMTをテーマにしたメモのパート2。
前回は両者の共通点として公債の否定を指摘しました。これは究極的には公的な金利、中立な金利という概念の否定になるでしょう。
経済学になじんだ方なら、ほとんどの理論が中立金利の存在を前提としていることに気付くはずです。これを否定するのは両者を除けば「金利は剰余価値が姿を変えたもの一種である」とするマルクスくらいではないでしょうか。
さて金利とはマルクスの表記を借りればひっきょうG→G´におけるGの増分、ΔGのことですね。こう考えると株式会社における株主への配当もΔGです。これを企業から見ても、カネの出所が銀行であろうと株主であろうとΔGを支払わなければならない存在じゃんという意味で両者は等価であるとするのがモジリアーニ=ミラー理論でした。
次に「価格」です。
価格と言う意味では現代の理論では株価や地価などの資産価格を形成する主要因は将来のΔG(キャッシュフロー)だ、ということになっています。
逆に言うと、公的金利や中立金利を否定する理論は、価格に関してこうした収益還元法ではない別の説明しているはずだ、ということになるわけです。
ケネーにとってはそれは「良価」(bon prix)であり、MMTにとってはそれは「JGP給与」だということになるでしょう。「良価」とは有名なケネーの『経済表』における中核概念なのです。社会の恒常的な再生産体制を維持するには、恒常的良価が必要だという思想がここにはある。
ここで重要なのは「等価交換」の前提なのですが、菱山泉の本(『重農学説と「経済表」の研究』)のP207-8から引用します。
重農主義派は、かれらの純生産論の含むところのものを明示するために、「貿易差額論」を批判する説明にせまられていた。一方において、商工業の不生産性の主張に関して立ち上がった重商主義者たちからの論駁に遭遇しており、他方、コンディヤックなどの効用価値論者の反駁にも際会していたから、この必要はいよいよ緊急の度を加えていた。重商主義者による貨幣形態での流通剰余に対する批判の有力な武器のひとつが、等価交換論であった。「石はどこに置きかえようと君にとっての値打は同じだ。」
どうですか?
商品の交換(商業)は、純粋には、すなわち完全な自由競争においては、等価交換をあらわすと考えられたので、重農学派にとって、交換ないし商業は結局のところなんらの価値の剰余をもたらさないものである。
一方、MMTの価格理論はこんな感じでしたね(笑)。
実はこの漫画、2002年のTchernevaの論文、Monopoly Money: The State as a Price Setter を説明するために作ったものなのですが、価格メカニズムという観点でこれをよく見ると、政府が購入するのは労働力である必要はありません。実際この論文で説明されているのは、政府が消防士を雇う場合でも、公共の場所に置くための新品のベンチという公共財を購入する場合でも話は同じだよね、という論理が展開されているのです。
要は、政府はある一つの財の「ふさわしい価格」を決めれば、あとは等価交換の伝播によって他の全ての財の価格が定まるということ。
これが他の学派には見られない、重農主義者たちとMMTだけに特有の把握だよね!と言いたいわけです。
つづく
