「企業は売上を伸ばさねば賃金は増やせない、だから賃金を上げるためには需要喚起政策が必要だ」というような言説があります。

 

この「賃金を上げる」のところは「景気を良くする」になったり、「需要喚起政策」が「給付金」「ベーシックインカム」になったりすることもありますが、その論理は変だよね、という話をします。

 

この言説は「売上げと仕入れの差額として粗利を得る企業が、それを労働者に分配している」という世界観に基づいています。

 

株主がそれを主張する分には理解できますよ。

だけれどもいったいどうして大株主でもない、普通の人々が企業の粗利を「先に」考えなければいけないの?

 

いつもの話になりますが、これこそがわれわれを苦しめているところの転倒した思考に他ならない。

 

自己のための時間を犠牲にして他者のために何かをすることが我々の社会関係の出発点であるならば(それをしない人は自閉症といわれる)、我々が支出する労働力は等価交換され、何かの拍子に誰かがトクをしてしまったら「はいはい良かったね、あなた運がよかったのだからみんなに還元してくださいよ」となるべきものじゃないでしょうかね。

 

この「誰かのトク」のことを私たちは利潤と言っている。

 

 

え?

「売上を増やさないでどうやって賃金を増やすの?」

ですって?

 

賃金が労働力に見合う等価交換になっていないのは、われわれの政府が、その市場支配力を使ってその価格を決めてしまっているからですってば。

 

それどころか労働力は安い方がよいのだという思想(=コーポレーションの利潤は多い方がよいのだという思想)にすっかり染まっているわけで。

 

いつまでもそんなことをするから、働けば働くほど株式ホールディング会社や持ち株会社や年金基金に利潤が積みあがるばかりで、誰も楽しくないし、そりゃ人口は減るという世界ができあがる。

 

そういうことですよね?

 

たとえば敗戦後日本は政府が復員兵を雇用したり、政府買入の米価を決めたり、そうしたことが価格を安定させていた。

 

企業は企業で、労働者との共存共栄っていうのは普通の思想だったんです。労働者との共存共栄をうたった松下幸之助に心酔した経営者っていっぱいたわけでさ。

 

そういうことはやめよう!

民活!

国鉄解体!

売上から利潤へ!

金融市場開放!

労働の自由化!

郵貯も民営化!

 

ってなったのは1990年くらいからだったかな。

 

そりゃこうなるわけですってば。

 

 

野口悠紀雄の記事より引用)

 

 

興が乗ってきたのでもう少し書くと。

こういう言説あるじゃないですか。

 

 

 

この東京博善というところの大株主は…

 

 

こういうことになっている。

 

民間が利潤を上げるのがよいことだ、とみんなが思っているならばこういう社会ができあがるのはリンゴが木から落ちるのと同じくらい当たり前のことなんですよね。

 

火葬場を政府が運営して諸経費を支出すればいいじゃないですか、こんなメンドクサイことをしていないで。

そうしたら「売上げ」は減って賃金は上がることでしょうね、そりゃ。

 

この資本信仰と言うべきものと統一教会のどちらが問題なのか。

 

この二つは同じようなものじゃんととしか思えないんですよねえ。