われわれが映像としておもいうかべているいわゆる貨幣の環状運動なるものは、あらゆる点で貨幣があらわれたり消えたり、またたえまなく位置転換したりすることがみられるということにほかならない。
(マルクス「経済学批判」第二章 貨幣または単純流通 岩波文庫p129)
給料日の直前などに「今はお金がないから夜のビールを買いに行くのを我慢しようか」というようなことがあります。
そんな時、たとえば、たまたま本棚のある本がメルカリで結構な金額で並んでいることに気づくと「これがあるからまあ余裕はあるわけだな」という気になったりして、実際に売ってみたり、売らなかったりします。
脳内で本は「貨幣形態」に変身しているのです。
なにしろ「引き出しにあった千円札のことを思い出す」ことによっても同じことが起こるでしょう?
さて。
上の「引き出しにあった千円札のことを思い出す」という事態は「引き出しの千円札」の実在とは関係がありません。たとえば同居人が既に使ってしまった!なんてことがわたしたちの日常にはよくあるから。
冒頭のマルクスの言葉の中で特徴的な単語の一つが「点」だと思います。
あなたや私の意識という「点」、あの人やあの人という「点」たちにおいて貨幣があらわれたり消えたりしているのです。
人間たちの支出という行動、たとえば「ビールを買う」は、この貨幣現象が深くかかわっています。
この支出という行動をよく観察すると、税と貯金は似ているというか、ほとんど同じようなものということになるんです。
「将来のために、自分の意思で毎月千円を貯金箱に入れていく」ということと「毎月千円分政府に課税されること」は、支出という観点からは同じことなんですね。
実は今ケインズ「戦費調達論」をあらためて熟読していて、それであらためてそう思ったので。
ここアメブロの「貨幣のオントロジー」シリーズではこういうことを下書き的に書いてみたい。オントロジーというのは哲学で言うところの「存在論」ですが、「ある」とはいったいどういうことかを考える営みを意味しているつもりです。
「貨幣がある」とか「お金がある」、反対に「お金がない/少ない」とはいったいどういうことななのか?
そうしたことを考えなければ貨幣論とか貨幣理論というものはそもそも成立しないじゃん。