眠っていた「映画ノート」から:「太陽がいっぱい」「栗色のマッドレー」のこと | 映画とネコと、私の好きなもの。

眠っていた「映画ノート」から:「太陽がいっぱい」「栗色のマッドレー」のこと

3連休の初日。

明日、明後日と、イベントが控えているので、

今日は、大掃除やら整理ごとやら。

断捨離を少しづつでも進めないと(老後のために)、といつも思っているのだけど、

こういうのって通常の週末だと時間がない。

やはり3連休だと、気持のゆとりがあるので、

今日は、少し手をつけた。

そんな中、ず~っと眠っていた、若い頃の映画ノートを発見!

なんと、1972年~77年頃に見た映画の感想など、

偉そうに書いてるの。

いやー、それ読んででて、若いときって、傲慢だなあと改めて思いましたね。

書いてることに恐怖感がない。自信にあふれてるわ。σ(^_^;)

まあ、それが若さの特権でしょうかね。

でも、ほとんど忘れていたので、
ふ~ん、こんなこと感じてたんだ~と私にはちょっと新鮮でもありました。

大学生のころは、映画を仕事にしたいってずっと思っていた。

でも、はずみで学生結婚という、大どんでん返しがあって、
2年後には子育てとか、色々ついてまわってきて、
普通の就職ができなかった。

で、回り回って、
2人目が生まれてから、映画関係の仕事について、
それから30年以上。
(洋画の仕事のつもりが、今は、韓流オバさんですけどね。。。(`∀´))

なんか、感慨深いわ~。

で、ここにご紹介したいのは、
77年にアラン・ドロンの「太陽がいっぱい」と「栗色のマッドレー」を書いた文章です。

何せ今から40年近くも前の文章なので、幼い感じ方、表現などありますが、
そのへん、ご容赦いただいて、読んでね。
(長文、ご覚悟!(;´▽`A``)
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昨日、久しぶりに「栗色のマッドレー」をTVで見た。
先週の「太陽がいっぱい」再見についても言えるのだけど、
自分の感じ方がとても深くなってきたことが、私には嬉しいのだ。

「太陽がいっぱい」は、もう何回見たか忘れてしまったけど、
本当に何から何まで素晴らしく、
月並みな表現になるけど、
あの海の碧さと白い陽光とドロンの幼さの残った美しい顔、
マリー・ラフォレの緑色の眼、
モーリス・ロネの冷たい残酷な横顔、
何もかもが完璧で、
ああ、こういう風にすべてが磨きに磨かれたとき、
初めてそれが芸術作品と呼ばれるのだなと、私は感心し、
しかも、そういうすべてがその一線上に見事に一致するなんてそうあることではないし、
やっぱり、後にも先にもアラン・ドロンという俳優の代表作は、
この「太陽がいっぱい」に尽きるだろうなと、
私はこの20年近くも前に作られたということが未だに信じられない
新鮮な魅力にみちた映画に感動を新たにしたのだった。



あの殺人場面のカットの切り替えはなんて素晴らしいんだろうと、
素人眼ながら、今回改めて思った。

トランプで勝ったフィリップ(ロネ)が、太陽に向かって明るく笑ったとき、
お尻の下に隠していた果物ナイフで、
(その前のシーンで、ドロンがこれでサラミを切って食べていたのが印象に残っている。
それを食べながら、彼はフィリップとマルジュの愛欲シーンを憎悪の眼で凝視する。
このとき、既に殺人の計画が彼には出来ていたのだ)
フィリップの胸をひと突きする。

悶絶の中で、沈黙、そして「マルジュ!」と大声で叫んで倒れるフィリップ。

突然、強風でヨットの帆が大きく音を立てる。
遠くに白い船。慌てて、帆先を変えるドロン。

そのカットすべてに太陽はギラギラと熱く強烈だ。
戦慄的なバック音楽と、強風に襲われたヨットの帆の音と太陽の下で、
ドロン扮するトム・リプレイは海の水をかぶりながら、フィリップの死体を急いで処理する。

彼は錘をフィリップの胸の上に乗せ大きな布をかぶせるのだが、
その布が風でめくれてフィリップの死に顔がちらっと見えたりする。

1つ1つのカットは、それこそ数秒だろう。
目くるめくその切り換えが私たちの心臓の鼓動をさらに速くさせ興奮させるのだ。

そして、ラストシーン。



太陽を見上げながら、
マルジュとそしておそらく彼女の財産も得るであろう幸福の絶頂にいるトム・リプレイの前に、
すべてを知った刑事が現れる。

そうとも知らず、「電話ですよ」と言った店のおばさんの言葉に安心して、
安堵の笑顔で画面から消えていくドロン。

彼の演技の素晴らしさがあの笑顔に集約されたと言っていいほどの美しい愛らしい笑顔だった。

そして、何故か、私はここでいつも涙が出てしまうのだ。



「栗色のマッドレー」は、70年度の作品だから、
「太陽がいっぱい」からほぼ10年後のドロンの姿である。


(※このパンフは今でも持ってる)

当時の彼はミレーユ・ダルクと恋愛中で、というより、夫婦も同然の生活をしていて、
ミレーユが原案を書いてできたのが、この映画だった。

大きな古城のような邸宅に恋人ミレーユと住む古美術商のドロン。



彼は時々浮気を楽しんでは、恋人との恋に新鮮な風を送り込み、
彼女もそれを楽しんでいた。

そんなところに、いつもの浮気と最初は思えた黒人の女マッドレーが現れる。

が、ドロンは、このマッドレーを愛するようになり、
ここに2人の女と男一人という奇妙な同棲が始まった。

最初はすべてを許したミレーユだが、そのうちに1人悩むようになり、
この三角関係に耐えられなくて、家出してしまう。

1人がいなくなると、あとの2人の恋の関係も、バランスが崩れてしまい、
マッドレーも消えてしまう。
一人、ミレーユを捜して、夜の街をさまようドロン。
夜明けの帰り道、ガソリンが切れて車の上で泣き明かしたミレーユと再会する。

もとに戻った2人。
だが、マッドレーのいない2人の生活は、以前のようにはいかない何かがあった。

やはりマッドレーなしにはやっていけないのか。
結局ミレーユはマッドレーを呼び戻す。
3人の生活がこうして始まるーー

「これからどうする?」とたずねるミレーユに、ドロンは「旅に出よう」と答える。

ラスト、白い馬に乗った3人の姿。
ここには悲壮な絶望に向かっていく彼らの顔がある。
ペシミスティックな予感にみちたバックミュージック
(フランシス・レイの素晴らしい音楽!)

とともに、彼らは果てしない地平線の彼方に消えていく。

この最後のシーンは、彼らの行く末を象徴するシーンである。
それは、結局破滅への道である。
そうとわかっていても、そうせざるを得ない、男女の愛欲の姿がそこにある。

私は6年前、映画館で見たとき、これを映像美の中で流れていく中身のない映画と書いたけど、
今見て、それはとんでもない見方だったとわかった。
これは、愛欲の姿を、その残酷さをフランス人らしい大人の怜悧な感覚でとらえた、
素晴らしい映画だ。
その極致には、結局のところ、絶望しかないのではないか。
絶望の先の破滅、そこまで予感しながらも、
なお、その魔力に見入られていく人間の男と女のどうしようもない姿。

「栗色のマッドレー」は、そうした男女の赤裸裸などろどろとした姿を、
美しい音楽と流れるような映像の中で、

何より絵になるドロンとミレーユという魅力的な恋人たちの
実生活を覗き見させるような興味も計算して美しく描いた作品なのだ。


                       (1977年1月20日 記)

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と、まあ、エラそうに評論家気取りで書いてますー。。。。(゚_゚i)(@Д@;

(当時、長文を特徴とする評論家の先生を真似てか、1つの文章がやたら長いわ)

(それと、今読むと、「愛欲」が多すぎて。今なら、赤入れたいわ( ̄ー ̄;)

当時はビデオもなくて、記憶だけで書いてたんですね、
そういう意味では、けっこう、頑張ってたかも((;´▽`A``
(なので、記憶ちがいがあるやもしれず。ご勘弁を!)


それにしても、アラン・ドロンは、ステキな役者だった。
特に「太陽がいっぱい」は、本当に大好きな作品で、
その思いが実ったのか、
後年、恥ずかしながら、
DVDのインナーリーフレットに原稿を書くことが実現しました。


で、「栗色のマッドレー」、これがまた素晴らしい!

だけど、これはDVDが発売されてません!・°・(ノД`)・°・

これは音楽の権利問題かなんかでトラブルが発生して、
世界中、どこの国でもDVDが発売されてないそうな。

こんなにオシャレで魅惑にあふれた映画はなかなかないので、残念ね。

ミレーユ・ダルクのファッションがとにかくカッコよくってステキ!
中性的なふしぎな魅力、
あのスタイルのよさ、
抜群のファッションセンスは、当時、みんなの憧れだった。

ドロンとの相性も最高で、その頃の映画雑誌のグラビアを2人が飾ることも多かった。
今でいえば、ブラピとアンジーみたいなものかな。




ミレーユとドロンはもちろん、今は別れてしまってるけど、
よい友人関係は保ってるみたい。さすが、大人なおフランスだわ~




なんと、you tubeでマッドレーのオープニングシーンが見られます!→ココ

ドロンが馬に乗って走っているシーン、懐かしい!
音楽も、そうよ、これだった!と涙出そうになりました!



ということで、

今日は、懐かしの青春時代プレイバックでしたー!

(70年代の映画、またいつか続きます!(;^_^A)