『チェルノブイル ソ連・安全への道』(1989・株式会社創造)
厚さ7ミリの薄い小冊子。内容もうっすいです。
メインは座談会「チェルノブイル事故から三年」。
出席者:田島英三(原子力安全協会理事長)
垣見俊弘(原子力工学試験センター特別顧問)
佐藤一男(日本原子力研究所東海研究所副所長)
濱田達二(日本アイソトープ協会常務理事)
司会:長岡 昌(科学ジャーナリスト)
思いっきり体制寄りの面々です。
垣見氏って、広瀬隆「原子炉時限爆弾」の中で名指しで批判されてた人ですね。インチキ断層評価で。
他はチェルノブイリと日本の原子炉の比較(当然「日本ではこのような事故は起こらない」が結論)と、
ソ連の御用学者による、当時の新聞記事批判。
すみません、これ読んだ訳ですけど全編ひどかったです。
事故の評価については今さら言う事もなく、いつもの推進派のテンプレなんですが。
発言の仕方がいちいち引っ掛かるんです。
試しに気になった所に付箋貼ってみたら、ほぼ全ページ貼ってキモイ事になりました。
ポイント①:上から目線
佐藤「ああいうふうに意欲を持って一生懸命やっていけば、次第にその実も伴ってくるんじゃなかろうか。もうちょっと
時間を与えてやるべきかなという感じもありましたね。」(P14)
佐藤「放射線管理という観点からすると、あれはナンセンスですね。これこそロシア的大らかさなんて我々は
いっていたんですよ。もっともよく考えてみると、実は発電所の建物の中より外の方が汚れているわけですね。
だから、あれでもいいのかしらと思ったりしましたね(笑)」(P24)
垣見「地震学そのものはソ連も非常にすぐれているんですけれども、耐震工学という技術の面で、ソ連も日本に学ばな
きゃならないということで、要請が来たんだろうと思っているんです。」(P58)
ポイント②:脳天気
濱田「事故当時は多分相当ひどい汚染だったと思うんですけれども、我々が行ったときはかなり回復している感じでした。
(中略)我々の持っていったポケット線量計の読みは、やっと針がふれたかなという、一~二ミリラドぐらいでしかなか
ったわけですね。」(P15)
(※1ミリラド=10マイクロシーベルト)
佐藤「外で別段何か汚染に対して注意しなきゃならぬようなことも、我々は一向になかったわけで・・・。」(P26)
田島「埋葬するときは、ヘリコプターがコンクリートと鉛をぶち込んだわけでしょう。ねらいがつかないでしょうから、
高度百五十~二百メートルぐらいまで下がる。そこの放射線量は、毎時三百レントゲン。そんなに放射線が高いと、
ヘリコプターの操縦士が困っちゃうだろうと聞いたら、それは軍のヘリコプターで底に十ミリの鉛が張ってあるから
大丈夫だといっていましたね。」(P32)
(※300レントゲン=約2.6シーベルト)
ちなみに、田島氏が「困っちゃうだろう」と心配していた、原子炉の真上を飛んだヘリの操縦士の証言を、
前回の本から引用します。
『チェルノブイリからの証言』(P155~165)
キエフ軍管区航空隊ウォルコズーブ大佐(54)の話
『(前略)プリピャチに飛ぶように命じられた。原発のまわりを飛んだとき、横の方に旋回していると、いやおうなしに原発の全景が目に入った。これまで何回か飛んだことがあるので私はその場所を知っていた。原発に近づくにつれて、機内に入れた放射線測定器のメーターの針が上がり、放射線レベルの上昇に気づかされる。排気用のスタック、こわれた第四ブロックが目に入る。煙が出ている。炉の裂け目から内部の炎が見え、煙は灰色をしていた。』
『(前略)われわれは飛行方法を考え、飛行高度を二〇〇メートルに保つことを確認した。それより低く飛ぶことは、放射線の影響を受けるので許されない。しかも排気用スタックの高さは一四〇~一五〇メートルもある。それが眼前にあった。その方向に飛ばねばならない。それがパイロットの基本目標だった。私はいまでもそれを夢に見ることがある。多分一生記憶から離れないだろう。』
『(前略)一〇メートル以上二〇〇メートル以下の間では静止飛行は禁じられている。ヘリはふつうは安全な乗物である。私は一九六〇年からヘリに乗っているが、私にとってそれは自転車に乗っているようなものだ。どんな場合でも、たとえエンジンが止まっても、私はヘリに乗っていられる。しかし、ヘリが高度二〇〇メートル以下のところで静止飛行をしている最中に、もしエンジンが止まれば、最高の腕を持ったパイロットでも機内にとどまってはいられないはずだ。(中略)そういうわけで、危険の一つは一〇メートル以上で静止飛行することにある。それは禁止事項である。ただ特別な事情があるときにだけそれは許可される。』
『(前略)測定器を機内に設置する。飛行の前にわれわれは鉛のシートで体のまわりを囲い、さらに鉛を操縦席と床にも敷いたが、足が当たるペダルのところだけはうまく敷けない。それでも何とか被覆した。さらに私たちは鉛のチョッキを着せられた。』
『(前略)どんな気分だったかっていうのですか?そう、四月二十七日以来、われわれに平和な夜はなかった。眠るのは二、三時間。夜明けから夕暮れまで飛び続けた。私は、「放射線の影響はどうなのか?」とよく質問をうける。けれども私にはわからない。影響があるのか、あるとすればどんな風にあるのかということが、わかっていません。しかし、疲労はひどかった。どうしてかわからない。放射線のためか、不眠のためか、それとも肉体を酷使した過労のせいか、精神的緊張のせいか。いずれにしても緊張の連続でした。大きな責任を負っていたから。
それら三回の飛行のあと、放射線調査のためにもう一度飛んだので、合計で原子炉上空に一九分四〇秒間静止していたことになります。』
長くなってすみません。
でも、田島氏が「困っちゃう」の一言で片付けたのは、こういう事でした。
この冊子にはそんな傲慢な空気が満ちています。
恥ずかしい本です。
この不愉快な座談会は、長岡氏の言葉で締めくくられていました。
長岡「広島、長崎、チェルノブイル、それがもう一回あってはいけないわけですから、またと得られない貴重なデータに
なるわけで、まさにそれは国際協力でやらなくちゃならないことですね。
どうもありがとうございました。(了)」(P72)
次の事故は。
残念ながら日本で起きてしまうんです。
もう亡くなられた方もおられますが、佐藤一男氏はご健在でチェルノブイリ25周年に寄せて
日本原子力文化振興財団のインタビューに答えていました。
検証・25年経ったチェルノブイリ原子力発電所事故
http://www.jaero.or.jp/data/02topic/cher25/interview2.html
御用学者オールスターみたいで、なかなか使えるページです。