↓前回の続きです。
<高校時代>
そして見事入学した高校。
なんと男子が少なく、女子が多い。校内での恋愛は微妙な予感。
制服は有名なデザイナーのデザインで素晴らしかったのだが、ブレザーとセーラー服が合体した感じで普通に着たらダサい。
時代はギャル全盛期。厳しい学校だったが、もちろん時代通りにギャルの道へいく。(でも中ギャルくらい)
体育祭ではもちろんパラパラを踊る。
高校三年生の頃私は体育委員だった。最後の体育際は絶対に優勝したくて燃えていた。
しかし私のクラスは体育が得意な人が集まっていなかった。(勉強できる系の頭の良い子たちが多いクラスだった。)
そこで私は考えた。
1~3年生で構成される赤組だったので、3年が運動神経悪めなら、1.2年生に頑張ってもらえばいい。
どの組よりも1・2年生と仲良くしました。
そして、3年生のクラス対抗のムカデ競争があった。
運動神経よさげの他のクラスが油断していたのを知っていた私は、とにかく練習しまくったのだ。
普段不真面目な私がやる気を出してみんなに声かけたら、ガリ勉君達も思い腰をあげて練習してくれたのだ。
そしてムカデ競争はチームワークが命。なんと私たち3年生の赤組が一位を獲得したのだ。
そして、見事に赤組優勝!!
実に感動した。胴上げされて嬉しかったな。
ここでも私は、「絶対優勝したい」という願望を叶えたのだ。作戦勝ちだ。
特殊な学校で、二年生からはそれぞれのコースに分かれて授業を選ぶ仕組みだった。私は芸術文化系列コースで好きな音楽と体育ばかりしていた。おかげで成績は良い。
どっかで聞いた噂で、遅刻はしても欠席しなければ大学の推薦をもらえるらしかったので、とにかく遅刻魔になったが、出席だけはしていた。
作戦通り、指定校推薦という絶対に落ちない推薦枠を勝ち取って、大学も楽して合格を勝ち取ったのだ。
どうやら私は世渡り上手なんではないかと思いはじめる。
ただ、指定校推薦で行ける学校を探した時、私がいける条件の中に有名大学があった。本当はそちらがよかった。しかし、遅刻回数が多かった私は選考になった場合絶対落ちると思ってしまった。
そこで、誰も選ばなさそうな偏差値の低い大学の指定校推薦を希望したのだ。
私は人生初めて、「妥協」をした。
<大学時代>
入学当初に英語のクラスを分けるテストをした。 私は、簡単すぎてなんだかおかしいなと感じながらも、とっくに済ませて寝た。 周りからは、「出来ない奴なのか?」と思われていたらしいが、レベルの高いクラスに入った。
その時、高校のレベルが高かったことに気が付いた。
高校1年か2年くらいの時、英検準2級をうけて私だけ落ちたことがあった。しかもあと1点とかのおしい感じで。落ちたことにより私は本当に英語も出来ず頭悪いんだなと思っていたが、どうやら勘違いだった。
レベルの高い環境の中での最下位は、レベルの低い環境では上位になるのだと知った。
なので、最下位の時に自信を無くす必要はなかったのだ。
注意:レベルというのも私基準である。人によって違う。
そして、大学時代は遊ぶことにまっしぐら。毎週渋谷のクラブにいた。イベントサークルというギャルサークルにも所属。
さらに渋谷のキャバクラで朝までバイト。もはやお客さんと飲んで遊んでお金をもらっていただけである。
授業はずる賢い手を使って簡単に出席。サボるにも程があるほどサボりまくっていた。
学校へ行っても友達とおしゃべり。ブランドもののカバンを持つことがかわいいと思っていた。お姉ギャルを目指していた。
もちろん就活なんてしてこなかったが、さすがに3年生の冬に焦りだして開始。 希望はイベント会社やイベントコンパニオン等の仕事。給料が良さそうで、楽しそうで、華やかな感じに憧れた。化粧品会社やジュエリー会社も受けてみた。
しかしどこも内定はもらえなかった。
そして、興味はそこまでない音楽系の会社から内定をもらった。悲しいかなこの会社が一番大手企業。
本当は行きたくないのに、大企業から内定がもらえたことで親も親戚も喜んでいたし、絶対にそこに就職することを誰もがすすめてくるので、その会社に就職することにした。
ここで私は世間体を気にして、2回目の「妥協」をしてしまうことになる。
にしても、誰よりも遅く始めた就活だったが、誰よりも早くすぐ採用が決まった事実に関しては、我ながら天才だなと思った。(笑)
ゼミの卒業論文も何を書いたかの記憶がないほど、一瞬でつくりあげた。しかも好評化をもらって簡単に卒業。
世渡り上手とは私のことだ。それに関しては確信に変わった。
次回は、”こんな私が社会に出てどうなったのか”
過去を振り返っていきたいと思います。
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