先日田野畑村の仮設住宅の方が、家が破壊されずに残った家には
国からの援助もなく、支援物資も届かず、回りにお店もなくなり孤立していて
とても気の毒な状況だとおっしゃっていたので、気になって出かけてみた。
NHKのプデューサーの一人菓子さんにお願いして車の運転をしていただき、アシスタントプロデューサーの半澤さんも一緒に出かけた。
菓子さんは田野畑でロケしてドラマを作ったことがありこの近辺に詳しい。半澤さんもそのドラマにかかわった。
この写真は震災でほとんどの家が流された島越の隣の島の沢の防波堤。手前が昭和8年の震災時に造られた防波堤。奥が建設途中の現在の防波堤。3月11日には間に合わず、しかも、それより高い波が来てしまった。
家が残り、今も島越に住んでおられる方たち。
旧児童館に集まって下さった。この児童館付近は昭和8年の津波の時も
流されなかったという。
郵便局が流され、年金を取りに行くこともできないという。
また、お店も流されてなくなり、食べるものにも困っているという。
仮設住宅には時々支援の品が届くが、残された家には何も届かないため
多くの方が生活に困っておられた。
車の運転のできない人は特に困っておられた。「新鮮な魚が食べたい」
漁村だった場所でお年寄りがおっしゃったのが辛かった。
集会所が流され、昔の児童館が集会所の代わりになったが、みんなが集まる機会がなくとても寂しい
とみなさんがおっしゃっていた。仮設住宅の方たちが毎日集会所に集まっておられるのとは対照的であった。
これが震災の時に建設途中だった防波堤。
高台に残った家。島越地区。
津波で曲がったガードレール。随分高い場所まで波が襲った。
ポツンと残った三陸線の駅のモニュメント。
高台に残った民家と旅館。羅雅地区。
松島。この島の三分の一まで水が上がった。手前はかもめ。
三陸鉄道「島越」の駅周辺がすべて流されて残っていないのに
宮澤賢治の詩碑だけが残っていた。賢治が30歳の時に島越を訪れたそうで
それを記念して造られた詩碑のようだ。
賢治は明治29年の津波の年に生まれ、昭和8年の津波の年に亡くなった。
叔父さんが明治29年に撮影した震災の写真が岩手日報にのり、賢治は
叔父さんの撮影した多くの遺体の写真を見て育った。