渡辺えりオフィシャルブログ「夢見る力」Powered by Ameba 戦時中、中島飛行機工場で旋盤工として働いていた父は、敗戦後実家のある山形県山形市の村木沢に戻って、農業をやりながら青年学校で勉強し、その学校の先生の影響で石原莞爾がリーダーを務めていた精華会に入っていたようです。

東京の空襲の日に武蔵野の工場から自転車で高村光太郎のアトリエが焼けていないか様子を見に行った父に、光太郎は「道程」の文庫本にサインをしてしてくれたそうです。まだ少年だった父はその時に握手してくれた光太郎の大きな手のぬくもりが忘れられないと今でも言いますが、そのあとしばらく文通していたようで、山形から出した父の手紙への返信の葉書のようです。

高村光太郎の直筆の葉書に「宮澤賢治の魂にだんだん近くあなたが進んでゆくように見えます。」そして「法華経のあの自由広大な世界に生きられたら実にすばらしいです」とあるのです。

石原莞爾も宮澤賢治も国柱会に入っていました。精華会はその青年部のようです。

父は国柱会には入っていなかったと言ってますが、その当時の状況をもっと調べてみようと思っています。

明日までに書きあげる予定だった新作「天使猫」なかなか書きあがりません。宮澤賢治と法華経のかかわりのところで膨大な資料と格闘しています。法華経の口語訳を読むのに、色々な資料を見ながら、三日近くもかかってしまいました。

しかし、光太郎と賢治、様々な共通点があり、そこに私の父がまた入ってきました。

震災のことで賢治を書こうと決意した訳ですが、昭和22年に光太郎が独居していた岩手県の花巻から出されたこの葉書を改めて読むと、いつか書かなくてはならなかったテーマだったのだと改めて思いました。