教育とは何か
“普通”にカテゴライズされる人の平凡な人生は、学校に通い、仕事をし、人を好きになり結婚し、家庭を築き子育てしながらゆるやかに年老いていくものだろう。それが当たり前と認識されているものだから、社会的に特定の年齢に達していながら結婚していない者に対して世間の味方は厳しい。最近よくおもうのは、敷かれたレールの上を歩くことがそんなに大事なことなのか?ということ。協調性がないだとか中二病なんて罵倒されそうだけど、でも本当に、純粋に疑問なんだ。そうすることが真に幸せであると当人が思うのであれば勿論なんの問題もないのだけど、世論に「流されて」そうしなくちゃと思わされているだけではないかということが幾つもある。例えば、学校へ通うこと。これはどうみても子供の為になることであってわたしも、学ぶというとはとても重要なことだと思っている。本来なら子供である間だけでなく、大人になってからも学び続けることは必要であるとすらおもう。だけど学校という限られた環境で、決められた学問を決められた範囲内でだけ教え、学ぶ。どういった学問があるのかを掲示?することは認識を持たせる為には重要で、必要なことだけど、決められた範囲内でだけ教えるというのは、子供の可能性を潰し得ることにもなるんじゃないだろうか。逆に〇年生にもなってこんな問題も解けないのか、と言われる環境まで作ってしまう。知っていて当たり前、とおもうことは思う人の世界も、思われる人の世界も狭めてしまう。無意識にでも、こういったことをしてしまう人は多い、むしろそれが世の中の普通、常識になっている。同年代の人たちとは違う物の見方をした、違う行動を取った故に教師や大人たちに批判された過去の偉人は何人もいる。そういった人たちは常識に縛られることなく、好きなように好きなことを真っ直ぐに追い求めたからこそ後に偉人と呼ばれるほどの偉業を成し遂げられたのではないか。そう考えてみれば問題児と言われる子供も、他の子供たちと協調が取れていないから“問題”とされる訳で、その考えは“みんないっしょでなければならない”という無意識の上に立っているもの。そもそも問題とは何なのか?変態でもない限り縛られることが心地いいと感じる人間はそういないだろう。程度の差はあれど誰もが無意識のうちに縛られて育ち、縛ることを覚えるのだとおもう。そういう環境に慣れすぎて、大人になると子供を縛ることが当然なのだとすらおもう。それがその子の為であると無邪気に、残酷に信じて。何が善で何が悪かなんて実はとても曖昧だ。兎や犬を食べる人をみると、動物が可哀想!なんて思ってしまう人が大半だけど自分たちも、直接的ではないとはいえ、牛や魚に同じことをしているということがある。だけどそれがその社会で誰もがやっていること=普通であるとして罷り通っているものだから、感覚が麻痺している…否、麻痺させられていると言うべきか。だから慣れない状況に置かれたときしばしば人はそれを嫌悪したり拒絶反応を見せる傾向にあるのだろう。学校は会社の縮小図であるという言葉もあるくらいだけど、人はもっと伸び伸びと成長していいんじゃないかともおもう。〇〇歳になったら学校へ通うのは当たり前、〇〇歳になったら結婚しているのは当たり前、こういった固定観念と偏見の定着が人の可能性を潰している、とわたしはおもう。こんなことを言っても考えが漠然としすぎているというのは解っているけどね。秩序を保つ為にルールは必要不可欠である、というのは全くもってその通りだとおもう。だけどそのルールは、もう少しくらい緩くてもいいんじゃないか?幸せなんて、本来はもっと単純なものだと思うんだけどなぁ。