こんにちは、
長女のミカタ、となみなおこです。

俳優さんに惹かれて
見てきました。
映画「蜩の記」

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美しい映画だと思いました。

美しい所作、
美しい言葉遣い、
美しい行い、
美しい心、
美しい関わり、
美しい景色・・・

けれど、決して
お涙頂戴を狙っていない
淡々とした映画に仕上げたことが、
主人公の生き方とよくリンクしていて、
見終わったとき
とても清々しい、そんな映画でした。

これから先は
少しネタバレになるかもしれないので、
映画をこれからご覧になる予定の方は
ご注意いただきたいです。

この映画では
「義を見てせざるは勇なきなり」
ということわざがよく出てきます。

コトバンクによると

〔論語 為政〕
人として当然行うべきこと
と知りながらそれを実行しないのは
勇気がないからである。

という意味のことわざ。

理不尽  VS  義
はこの映画のテーマのひとつ
なのでしょう。

この主人公は
理不尽で過酷な運命の中でも、
潔いほどに自分の義を信じ、
それを行動に表し、
周りの人たちの義による行動をも
体を張ってサポートします。

それはそれは美しい在り方です。
心が洗われるような気がする
映画となっています。


その映画を見終わって、
私が改めて大きく感じたことがあります。

なかなか悲しみを表現できない人が多い日本人。

私たちが簡単に悲しみの涙を流せないのって
私たちのご先祖によって刷り込まれた
DNAによるものなんだなぁ

ってこと。

悲しいに決まってる。
なのに、笑顔で見送る。

悲しいに決まってる。
なのに、武士たる者、凛としている。

これが美徳だった。

あれは悲しい出来事だと思ってはいけない。
だって「義」のためだもの。
泣いたら悲しまれる。
義を貫いて素晴らしいことだと
私も受け止めなければ。

って。

本当に美しかったです、そのやりとりは。
悲しまれたら、きっとご本人はつらかった。
だから、その方のためにも、
笑顔で見送るのは、
素晴らしいことをされたんです。

それでも・・・
あの後、あの人達に、
そっと悲しみの涙を流せるときが
来ていたらいいなって思います。

きっとあの美しい方たちは
泣かないで終わってしまったんだろうなぁ。
悲しみを封印してしまったんだろうな。
そのクセ、現代の私たちの中に
残ってしまっているもの・・・。

美しかったけれど、
とても悲しいお話でした。

悲しかったのに、
ずっとその悲しみにフタをしていると、
前に進めなくなる日が来るんです。
実に大きなブレーキになったりするんです。

だから、
そのときでなくてもいい。
あとで自分一人になったときでもいい。

私は悲しかったんだ、
泣きたかったんだって
思いっきり泣くことを許せたらいい。


認めてあげさえすれば、
その出来事を本当に乗り越えられる。

映画の中で出逢った人たちだけど、
あの人たちがいつか、
分かり合える人たちとともにでも、
あるいは自分一人ででも、
大きな声をあげて、泣けたらいい。

そんなことを思います。

美しい美しい武士の義の物語を見ながら、
思ったことです。

悲しみも、
怒りも、
自分の中に現実として湧いた感情。
そう感じたのには
自分にとってちゃんとした理由があるんです。
私は辛かったってこと。
人に言わなくても良い。
自分だけは、その感情をちゃんと認めてあげたい。

人が見て美しい行いと、
自分の感情が湧くことは
別のものととらえたい。

感情は湧いた事実は、
起きなかったことには出来ないってこと
忘れないようにしたい。

肯定も否定もしなくてもいい。

自分自身に
「悲しかったんだねー」って
言ってあげるだけでいい。

DNAに刷り込まれた私たちの苦手分野、
本当にその出来事を乗り越えるために、
その苦手分野を克服するために、
まずはそこから始めたいですね。