會津八一の代表的歌集『鹿鳴集』は1940 昭和15年に出版されたが、その校正に尽したのは唯一の歌の弟子と言われる歌人吉野秀雄(1902-67)だった。吉野が後年書いた「会津八一の思ひ出 —上州小旅行の頃」という文章に、次のようなことが書いてある。

 

1940 昭和15年6月、群馬県高崎市出身の吉野が師會津八一を案内して伊香保温泉に泊まった時に、八一自身が『鹿鳴集』の中から良いと考える歌に印をつけたら81首になったという(自分の名前と同じというのが面白い)。その翌日にはさらに精選して16首になった。このようなことを吉野が持参した出版されたばかりの『鹿鳴集』の見返しに八一自身が書いていると。

 

「書入れ本見返しの三と四の面に、「六月一日、伊香保仁泉亭に来り、浴後闌に倚って此の書を閲す。稍々誦するに足るものをもとめて八十一首を得、加ふるに、点を以てせり。他日再閲せば、恐くは半減せむことを。朔記」とあり、なほつづけて写してしまふと、「翌二日、朝浴後、また之に対し、八十一首中稍可なるものを選んで十六首に至りし時、棲婢杯盤を運び来る。夜来の烟雨前山を覆て一望海の如し。朔又記」 「三日、晴朗、湖畔に遊んでかへる」といふ次第になる。」

(1958年11月 未発表 『吉野秀雄全集』第3巻 p.217 1969年 筑摩書房)

 

 

かすがのにおしてるつきのほがらかにあきのゆふべとなりにけるかも

ほほゑみてうつつごころにありたたすくだらぼとけにしくものぞなき

ちかづきてあふぎみれどもみほとけのみそなはすともあらぬさびしさ

まめがきをあまたもとめてひとつづつくひもてゆきしたきさかのみち

 

毘楼博叉まゆねよせたるまなざしをまなこにみつつあきののをゆく

みとらしのあづさのまゆみつるはけてひきてかへらぬいにしへあはれ

ふたがみのてらのきざはしあきたけてやまのしづくにぬれぬひぞなき

しぐれふるやまをしみればこころさへぬれとほるべくおもほゆるかも

 

はなすぎてのびつくしたるすゐせんのほそはみだれてあめそそぐみゆ

しらゆりのはわけのつぼみいちじるくみゆべくなりぬあさにひにけに

みわたせばきづのかはらのしろたへにかがやくまでにはるたけにけり

すべもなくみゆきふりつむよのまにもふるさとびとのおゆらくをしも

 

さよふけてかどゆくひとのからかさにゆきふるおとのさびしくもあるか

のぼりきてしづかにむかふたびびとにまなこひらかぬてんだいの祖師

ひむがしのうみにうかびていくひにかこのしきしまによはしらみけむ

たちいればくらきみだうに軍荼利のしろききばよりもののみえくる

 

 

この16首については『自註鹿鳴集』(岩波文庫他)で八一の註とともに味わっていただきたい。歌は吉野の書いた通りとした。

この中には歌碑になっている歌が3つある。それはどれだろうか? 場所は?

なお吉野秀雄は「会津八一」と書いているが、私は「會津八一」と書くことにしているので、この文章では混在しているのを了解してほしい。また吉野の文のかな遣いもそのままとした。

 

吉野秀雄のこの文章は次のようなことも教えてくれるので参考までに付記しておこう。

 

1.會津八一の最初の歌集『南京新唱』がさっぱり売れなかったこと。

 

「道人の歌集では、第一集の『南京新唱』(大正十三年十二月春陽堂刊)いちばん密度が高いとわたしなどは解してゐるし、今日あれの署名本でもあればひどく珍重されるにきまってゐるが、しかも出版後十年余りも経った昭和十年の頃まで、いくらでもない部数だったらうのに捌けきれず、新宿あたりの露店でたたき売りされてゐたもので、道人が或る日、「あまりにもったいないので、五円分だけ買ってきたよ」といって、紙包みから十冊取り出したことをわたしは忘れかねる。」(全集vol.3  p.214)

 

2.昨年3月に亡くなったノーベル賞作家大江健三郎のお母さんが會津八一の歌を諳んじていて子供たちに聞かせていたこと。おそらく1945年前後のことだろうが、四国の愛媛県に八一の歌の愛好者がいたことが分かる。

 

「道人の歌を熱愛する人々は、高崎ばかりでなくどこの土地にも、隠れた形でしかし根強く存在するらしい。噂によると、新進文士大江健三郎君のお母さんなんかも、道人の歌を諳んじ、子守歌代りにうたひながら、大江君兄弟を育てたとかいふことだ。」(全集 vol.3  p.215)