四国霊場の一つ八栗寺(香川県)の梵鐘を新しくつくるにあたり、住職中井龍瑞が法界院住職松坂帰庵と相談して會津八一に鐘銘を依頼した結果ユニークな梵鐘が完成した。前回は中井龍瑞の文を紹介したが、今回は大きな役割を果たした松坂帰庵の書いたものを紹介する。

 

冒頭の會津八一の経歴を紹介した部分は省略した。また「秋草道人」は「秋艸道人」が適切なのだが原文を尊重した。文章は古文的、漢文的な表現や歴史的かなづかいが用いられているが、かなを現代かなづかいに改めたほかは原文を尊重した。

 

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八栗寺梵鐘と秋草(艸)道人

 

松坂 帰庵

 

(前略)さて、昭和三十年彼岸過、中井僧正来院、八栗寺に梵鐘を新鋳するにつき、法界院所蔵の香取秀真先生鋳作の洪鐘を一見して、私に意見をもとめられたので、私は即座に、秋草道人という人あり、此先生に一首の作歌をお願いして、此先生に揮毫を願って鋳造せば後世珍重せられるでしょう。鋳造は岩沢鋳造所は何(ど)うですと申したところ、万事宜敷(よろしく)と一任せられたので、秋草道人に一首の作歌を依頼しましたが、十万円菓子料を奮発なさいと云ったところ、中井僧正は快く何卒可然(なにとぞしかるべく)ということであった。

 

中井僧正はその時秋草道人を知られざりしに、私の尊敬する先生ということと、座敷に掲げてある額の文字を見て、秋草道人の人物を見抜かれた眼力と、私を信ぜられた友情には敬意を表せざるを得ないので、早速秋草道人に恐る恐るお願いした次第である。

 

秋草道人は実に厳しい人であって、吉野秀雄先生の追憶記に

 

道人は実にきびしい人で、門下の許可を得るだけでも、長い年月を要するが、その直門の者共にも、時々破門や絶交が宣告され詫びを入れてもらうのにも、これまた一両年ないし数年がかりというのが常だった。

 

とある程の頑固な人である。この先生は人の依頼をうけて作歌するようなことは絶対にないのである。秋草道人は先生の墨蹟集「渾斎近墨」の序に

 

私は元来御所望をうけても、すぐ筆を執ることの出来ぬ性分でありますし(中略)軽々しく揮毫をもとめたり、またこれに応じたりすることを、良くない習慣だと思っている。

 

と記してあるほどだから、作歌と揮毫をお願いすることは薄氷をふむおもいであった。

 

秋草道人の歌碑は五基あるので、石に刻した文字のおもむきについては経験をおもちでしたが、銅版に鋳造すれば自分の書の味が何うであろうかということ、と銅鐘に鋳造すれば書風を千歳の後に遺すことができるという楽しみを感ぜられて、私への返事に

 

従来石碑は手がけ候へども、鋳金ものは無経験にて候へば、従ってすべて不案内にて候へども此の件はおひきうけ可申(もうすべく)と存候、そのほかに歌を詠むことも拙者にとりてはまことに重大の仕事なれども何とか作り上げ可申と存じ居り候。寸法も大略御示しによりて承知致し候へども、字配りしたる実物の立体感はまだ眼前に泛(うか)び来らざる故、その点研究可致(いたすべく)(下略)

 

この手紙は十月卅日正午に認(したた)められたものである。

 

私は八栗寺の景観と、その鐘声の及ぶ範囲の風光を詳細に申送ったのである。すると、十一月八日付で、鐘名(銘)をいただいた。開封一見、感極まるを覚えた。文章の簡潔にして、歌詞調高く書の古雅なること。当代第一人者の高風を千歳に伝うるに足るものと歓喜した。

 

(前略)数日朝夕推敲の末、ようやく次の如く書き上げ候。(中略)最初は「会津八一」と署名し、これは神仏に対して当然の敬意の表現と思いしも、「秋草道人」の方が一般的に知れ渡り居る如く考え直してそれに従い申候。(中略)歌一首は四日間かかりて詠み据えたるものにて、自ら悪作にあらずと自信あるもの(中略)、この寺の名は柴野栗山(しばのりつざん)の号に源(もと)づくところなることに興味を覚えこの鐘声を地下の大儒の聞かんことに空想を走せつつ筆を馳せ申候、ことに栗山も相当の書道家なりし故、世代を異にせば彼が筆を馳すべかりしことなど考え及び申候。(中略)仏刹の重要なる法具なることと、鋳工の手にかかるものなることにて、奔放に筆を走らすることも出来ず、甚だ窮屈に四角張りて数日を送り申候。(下略)(続く)

 

 

 

アズマイチゲ