20日に掲載した 「白い虎が見ている」 に私は次のように書いた。

 

「作品のタイトル 「白い虎が見ている」 とはどういう意味なのか、虎の仮面の12名の女性群像は何を意味しているのか、といった点についても知りたいと思うが、何の説明もない。作品を観る者は、説明しなくても分からなくてはいけないのだろうか。」

 

「こうした作品にたいする作者の思いが、何も知らないで観る人たちにどのようにしたら伝わるのか。なにもこの作品に限らないが、芸術をめぐる永遠の課題かもしれない。」

 

 

しかし考えてみるに、芸術家が自分の作品を発表する時に、作品について説明する義務はないわけだから、その作品をどのように受け止めるかは専ら観る方の側の問題と言えそうだ。

 

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そこでいろいろと考えてみた。

 

この作品の新しさは、存在するもの(凸型)を凹型に表現することで、空洞・不在でありながらあたかもそこに存在するかのように、そして観る者との関係をより強く感じさせるところにあると言える。(作品説明板の説明)

 

これは、生身の人間とその幽霊との関係に似ていないだろうか。(そこに居るようで居ない)

 

作品の女性群像の一人が虎の仮面を外して人間の姿を見せているのは、本当の姿と仮の姿(不在)を示しているのではないだろうか。

 

「原爆の図」の多くの作品は、原爆犠牲者のさまざまな悲惨な姿を描くことで、こうした犠牲者の声なき声を観る人々に訴えているのではないだろうか。

 

「原爆の図」の第一部は、悲惨な犠牲者の群像で、「幽霊」というタイトルがつけられている。「今は姿なき人々(不在)の訴えを」という意味だろう。

 

「今は姿なき人々」 は虎ノ門駅の 「白い虎たち」 のことだろう。

 

「白い虎が見ている」 の作者が 「虎ノ門駅の彫刻をつくっているときは、ずっと 「原爆の図」 の幽霊を背負っているような感覚だったんです。」 と語っているのは、このような意味だったのではないだろうか。

 

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以上のように気づいたことを並べてみると、「白い虎が見ている」 の作者が作品を通して何を訴えようとしていたのかがだいぶ分かってきたように思う。そしてタイトルの意味も。(見当はずれでなければよいが)

 

制作者も一所懸命なのだから、観る方も努力しなければ、との思いを深くしたのだった。