かすがのに おしてるつきの ほがらかに あきのゆふべと なりにけるかも

 

東大寺裏参道、新薬師寺路、高畑土塀、西の京唐招提寺、さては明日香のゆるい上り路が詠まれている。

 

これより以前、会津が初めてくれた絵葉書に一茶の「やせ蛙負けるな一茶ここにあり」の句の脇に付けて「あとに控えた会津八朔」とあった。その話をすると、彼は「もう一茶は卒業だ」と言った。そして私が頭痛の愚痴をこぼしたら「おれも命からがら放浪した」。しかし肥えた体には命からがらは似合わなかった。

 

鳩、蘭の次に彼は古瓦を集めた。これは法隆寺再建論文のためであった。数年後学位を得たとき、教え子らが祝賀会を開いた。内田巌は「あんなご機嫌の良い会津は初めてだ」と笑った。時に揮毫中に会うと、これをやろうと色紙をくれた。左に竹葉模様、右に瀟湘夢裏秋、気負わずに書いたのが私には好ましい。彼は一面中国好みで、中国茶を飲み、筆、墨、紙や老酒を買い、模様のある中国上着を着て中国大人だと悦に入った。

 

秋草堂では吉野秀雄、窪田章一郎、版画の織田一麿、安藤更生に会った。小杉放庵は長男一雄が彼の後輩なので、放庵の話もよくした。この秋草堂も市島家の都合で明け渡すことになった。しまはいつの間にか結婚して去り、キイに代わり、安食勇治氏の持ち家に移転できた。秋草堂より百メートル北である。クモの巣を払うことも無くなり、先生の蓬髪も手入れされ、一見格が上がって見えた。

 

秋草堂を去るころから歌も書も知られた。ある日、廊下にうどんが積んであるのを指して「半分持って行け、 一人で食えるものか」と書への礼について不平をもらした。「うどんなら良い方ですよ、私なんかただで度々画をだまされた」と二人で苦情を言った。

 

私は十九年春、富士に疎開した。二十年に落合は私宅も会津の家も空襲で焼けた。二十三年、私は新潟の安宅安五郎と二人で会津に会い、無事を祝った。静かな家で米どころだから居心地はよさそうに見えた。

 

会津はこの地の大料亭が生家であったと話した。新潟日報の社長に推され、名誉市民の噂もあった。しかし、長岡では書の礼金を叩き返した話を聞かされて暗然とした。

 

秋草堂を去る前、油画を描くと言うので、一揃い道具を持って行き、すぐ水滴と甜瓜(まくわうり)を描いた。水滴は陶器の質が出て、岸田劉生に似ていると私はほめた。会津八一の洋画帳の箱とガラスコップの素描、これは立体に付いて私の説明図である。会津から横取りするようだが、誤を正しておく。保存してくれた安藤に礼を言いたい。

 

たかむらに さしいるかげも うらさびし ほとけいまさぬ あきしののさと  

 

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早稲田の中学校の教師と生徒の関係に始まった縁は、會津八一(1881-1956)と曽宮一念(1893-1994)が落合の住人になってから親しく行き来する関係になったようすがこの曽宮の文章から分かる。中村彜とは彼が早逝したために交遊はごく短い期間で終ってしまった。

 

八一はよく筆で絵を描いては自分の歌に添えたりしていたが、油彩画を描くようになったのは曽宮の指導によるものであったことがこの文章で分かる。かつて東京新宿の中村屋サロン美術館で會津八一展をやった時(2018)に、小品ではあったが八一の油彩画をみて感心したことを思い出した。その時の図録から油彩画を2点紹介する。水滴の画は曽宮の文章にある作品かと思う。

 

 

 

 

 

急に秋らしい過しやすい日が多くなったが、庭には秋海棠(シュウカイドウ)が咲いている。ベゴニアの仲間で中国からの帰化植物。断腸花とも言い永井荷風が愛した花として知られる。彼の日記は「断腸亭日乗」という。