新聞に掲載された感想や追悼など短い文章の多くは、筆者が後に自分の文集にでも採録しなければほとんどが忘れ去られてしまう運命にある。私の手元にある新聞の切り抜きの中から、そうした文章の一つ、會津八一と中村彜についての画家曽宮一念の「落合秋草堂」という文章を紹介しよう。

 

この文章は『朝日新聞』に2回にわたって掲載されたもので、落合の秋艸堂における會津八一のようすや曽宮一念・中村彜・佐伯祐三といった落合に住んでいた画家たちとの交流のようすが当事者によって書かれているのが貴重と言えよう。(1977 昭和52年2月6日、13日)

 

なお會津八一には「中村彜君と私」(『渾斎随筆』所収)といった文章があり、私はこのブログにかつて「落合の画家たち」という文章を載せている。紹介にあたって、曽宮の文章は原文を尊重して新聞掲載の通りとした。

 

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おちあひの しつけきあさを かまつかの したてるまとに ものくらひおり

 

目白駅の西北一㌔、小学校の隣り、木立の中の平屋に会津八一が居た。しまという郷里の身内が世話をしていた。秋草道人と称していた。蓬髪大柄の体に似合わない着物を兵児帯で巻いた彼は、老書生というにふさわしかった。この家は、畑を抜け林の藪を潜ると門は無く、格子のある玄関があった。ここに奉賀帳とチビ筆と墨壺があり、来客はこれに記名した。

 

秋草道人が住むので秋草堂と私は言い始めた。市島謙吉の持ち家と聞いた。春秋とも草と雑木に埋まり、毛虫とクモの巣を払いながら入った。私は大正九年秋、関西から落合に転じると、小泉清から会津が近くに居ることを聞いた。私の家は会津と中村彜との中間に在った。この路は畑と並木の間をぬけ、水の湧く三の谷に添っていた。追い追い画家がふえて、少々息苦しかったが、あの路は美しく思い出す。

 

会津は私が中学五年の春赴任した英語教師だが、受け持ちでないので、話はしなかった。訪ねると、二人は旧友らしく雑談に時を過ごした。当時私は不明な頭痛を病み、その合間に会津と中村を訪ねたが、いま思うと会津に書や歌や史学を聞いておけばよかった。

 

そのころの会津は、小形の鳩を幾箱も飼っていた。首に白い輪を持ち、啼きながらお辞儀をする。これが斑鳩かと思った。次にカナリヤを飼い、大形のインコの篭を枝に下げて、彼は学校から帰るとオカエリと挨拶を交わした。廊下は鳩とカナリヤで足の踏み場も無く、その上たくさんの中国蘭の鉢を作った。しまは主人の他に鳥と来客で忙しかった。この人は小柄で、お世辞も言わず、来客達は好感を持った。私は蘭一鉢と鳩一番(つがい)をもらった。

 

こんな往復のあった後、会津が訪ねて来た。歌集を出すので、画を入れたい。奈良か落合風景が欲しいと言った。何年であったか調べられないが、私は例の頭痛で寝込んでいたから、初夏であったろう。これが「南京新唱」である。初版に富本憲吉の皿絵が出ていた。同じ頭痛で断った装幀がも一つある。終戦の翌年、太宰治の斜陽のゲラ刷りと「この人は近い内に死ぬから」と装幀の依頼を受けた。この時は、今のボロ家を建てた疲れで、弱り切っていて断った。二つ共悔を残している。「南京新唱」は一カ所仏像が漢字の外全部平仮名で作られている。

 

毘楼博叉(びるばくしゃ) まゆねよせたる まなざしを まなこにみつつ あきののをゆく

 

中村は会津がギリシャ神殿彫刻の写真帳を持っているのを見たいと言うので、本をもって訪ねた。大正十二年春であった。翌年春の告別式には、会津と私は隣合って座った。佐伯祐三へは、自作の家が震災でも壊れないから見に来いと言われて会津と立ち寄った。(画家)(続く)

 

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昔の新聞を見ると、文字の大きさがとても小さいのに驚く。昔の人はよく毎日こんなに小さい字の新聞を読んでいたものだと感心する。

参考までに、写真の左は曽宮の文の載った新聞、右は今の新聞記事の一部だが、並べて一緒に撮影したので文字の大きさの違いが想像できると思う。今の文字の大きさは11か12ポイントくらい、昔のは6か7ポイントくらいではないだろうか。今の新聞の2段に昔の新聞の3段が収まってしまう。

 

 

 

10月になっても庭に元気にアサガオが咲いている