石川啄木は1886 明治19年2月に生まれて、1912 明治45年4月に病気と貧窮に最後まで苦しみながら26歳の生涯を閉じた。明治は45年の7月に天皇の死をもって大正となるから、啄木はまさにその生涯を明治時代に過した青年の一人として活動し、去っていったのだった。

 

 明治の日本は、啄木の祖父母たちの年代が明治維新に活躍して近代国家建設の出発点となり、その頃生れた父母たちの年代が憲法の制定や議会その他の諸制度を整えて近代国家らしくなっていった。そして啄木たちの年代が、父母の年代とともに日清・日露戦争による領土の拡大、その後の軍国主義の時代へと日本を進めていった。

 

 啄木は明治27・28年の日清戦争時はまだ8歳の少年だったが、明治37・38年の日露戦争の時には自分の考えを公表する青年に成長していた。

 

 当時の新聞『岩手日報』に8回掲載された「戦雲余禄」と題した時評で彼は次のように書いている。(1904 明治37年3月)

 

「今の世には社会主義者などと云う、非戦論客があって、戦争が罪悪だなどと真面目な顔をして説いて居る者がある。(中略)かかる時に因循として剣を抜かずんば、乃(すなわ)ち彼等の声明は平和の福音でなく、寧ろ無気力の鼓吹である。」

 

「今や挙国翕然(きゅうぜん)として、民百万、北天を指さして等しく戦呼を上げて居る。戦の為めの戦ではない。正義の為、文明の為、平和の為、終局の理想の為めに戦うのである。ああ斯かる時に、猶且つ姑息なる平和を仰望する輩の如きは、蓋し夏の日遠雷の響を聞いて直ちに押入の中に逃げ込む連中でがなあらう(原文のまま)。怯懦も斯うなっては一向愛嬌がない。」

 

「今度の日露戦争が単に満州に於ける彼我の権利を確定して東洋の平和に万全の基礎を与えるのみでなく、更らに世界の平和のために彼の無道なる閥族政治を滅ぼして露国を光明の中に復活させたいと熱望する者である。」

 

 ここには戦争に反対して活動していた堺利彦や幸徳秋水ら社会主義者や内村鑑三らへの批判と、日本の領土的野心には目をつぶって 「彼我の権利を確定して東洋の平和に万全の基礎を」とし、戦争は圧政に苦しむロシアの民を救うための正義の戦いと主張する(文明論的義戦論)啄木がいた。

 

 

 

 

 

 

 ところが日露戦争が終り、「一等国」となったはずの当時の日本が直面するさまざまな問題が明らかになる明治末年になると、啄木自身の生活の大きな転機とも重なってその考えは大きく変化していった。

 

 当時の啄木が書いた時評に「大硯君足下」というのがある。「大硯(たいけん)君」 は『函館日々新聞』の主筆斎藤哲郎(1870~1932)のことで、北海道時代の啄木が大変世話になった新聞人だった。この時評は未完成のためにあまり知られていないが、明治末年の啄木の考えを知る上で、また同時代人による時代批評として注目される。啄木の日記から1911 明治44年1月に書かれたものと分かる。(『石川啄木全集』 第4巻 筑摩書房 収録)

 

「日清戦役の時は、我々一般国民はまだほんの子供に過ぎなかった。反省の力も批評の力もなく、自分等の国家の境遇、立場さえ知らぬ者が多かった。無論自分等自身の国民としての自覚などを有ってる者は猶更少なかった。そういう無智な状態に在ったからして、「膺(う)てや懲(こら)せや清国(しんこく)を」 という勇ましい軍歌が聞えると、直ぐもう国を挙げて膺てや懲せや清国をという気になったのだ。反省もない。批評もない。その戦争の結果が如何な事になるかを考える者すら無いという有様だった。そうして議会も国民と全く同じ事をやったに過ぎないのである。それが其の次の大戦役になると、前後の事情が余程違って来ている。事情は違って来ているが、然し議会の無用であった事は全く前と同じである。」

 

「日露戦争に就いては、国民は既に日清戦争の直ぐ後から決心の臍(ほぞ)を堅めていた。宣戦の詔勅の下る十年前から挙国一致していた。そうして此の両戦役共、仮令(たとえ)議会が満場心を一にして非戦論を唱えたにしたところで、政府も其の計画を遂行するに躊躇せず、国民も其の一致した敵愾感情を少しでも冷却せしめられなかったことは、誰しも承認するところであろう。」

 

 引用した一節は、日清戦争の勝利、三国干渉、日露戦争の勝利と展開した朝鮮半島および中国東北部(満州)の支配をめぐる清国およびロシアとの戦いについての当時の世の中の雰囲気を大変良く伝えているように思う。

 

 しかし、冷静になって考えるならば、この日清・日露戦争と突き進んだ明治日本の歩んだ道は選択の余地のない唯一絶対の進路だったのだろうかと、啄木は問いかける。自分自身に、そして日本の人たちに。

 

「戦争というものは、何時の場合に於ても其の将(まさ)に起らんとするや、既に避くべからざる勢いとなっているものである。そうして其の時に当っては、外の事とは違って一日一時間の余裕もないものである。既に開戦された後にあっては猶更である。随って其処にはもう言議の余地がない。仮令言議を試みる者が有るにしても、責任を以て国家を非常の運命に導いた為政者には、もうそんな事に耳を傾けている事が出来ない。是が非でも遣る処までは遣り通さなければならぬ。又そうする方が、勝利というものを予想し得る点に於て、既に避くべからずなったものを避ける為に起る損害を敢てするよりは如何なる政事(治)家にもやり易いのだ。」

 

「然し戦争は決して地震や海嘯(かいしょう 津波)のような天変地異ではない。何の音沙汰も無く突然起って来るものではない。これ此の極めて平凡なる一事は、今我々の決して忘れてはならぬ事なのである。歴史を読むと、如何なる戦争にも因あり果あり、恰(あたか)も古来我が地球の上に戦われた戦争が、一つとして遂に避くべからざる時勢の必然でなかったものがないようにも見えるが、そう見えるのは、今日我々の為に残されている記録が、既に確定して了った唯一のプロセスのみを語って、其の当時の時勢が其のプロセスを採りつつある際に、更に幾多の他の方向に進むべき機会に遭遇していた事に就いては、何も語っていないからである。」

 

 近代日本の歴史は日清・日露戦争の勝利を経て、以後の大正・昭和の歴史が語られることが多いが、日清・日露戦争ははたして避けることのできなかった唯一絶対の道だったのだろうかと、問いかける、考えることも必要なのではないだろうか。何故なら 「今日我々の為に残されている記録が、既に確定して了った唯一のプロセスのみを語って、其の当時の時勢が其のプロセスを採りつつある際に、更に幾多の他の方向に進むべき機会に遭遇していた事に就いては、何も語っていないからである。」 と啄木は考えたのである。

 

 このことはある人物の履歴を語ることを例にとると、「A君はB高校・C大学を卒業してこの会社に就職しました。」 という説明には、もしA君がD高校やE大学を卒業していたら別の会社、あるいはまったく別の仕事をしていたかもしれないという可能性については、何も語っていないという事になる。しかしそうなった可能性は十分にあったであろう。

 

 国の歴史を考えるのも同じで、だれもが知っている結果に至る筋道を明らかにするのが歴史のすべてではなく、その途中で選ばれなかった、あるいは知られなかった選択肢があったのではないだろうか。もしあったならば、なぜそれが選ばれなかったのだろうか。もしそれを選んでいたらどうなっただろうかと、考えてみるのも必要ではないかと、啄木は私たちに問いかけているように思う。

 

「歴史学ぶ」「歴史学ぶ」ということは、このような事ではないのだろうかと。

 

 先日「分断の克服 1989-1990 統一をめぐる西ドイツ外交の挑戦」で「第22回 大佛次郎論壇賞」を受賞した板橋拓己(東京大学教授)さんの受賞スピーチの記事が新聞に載ったが、その中に「歴史を必然ととらえずに可能性の束として考えることは、未来をどう形作っていくかを考える力になります。」という発言があった(『朝日新聞』 2023年1月28日)。100年の時空を超えて啄木と呼応しているように私には思われた。

 

(引用文は可能な限り常用漢字と現代仮名遣いに変更した)

(写真は東京に雪の降った10日の庭のツバキと今日の庭のセツブンソウ)

 

 

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