屋根を載せた大木の写真は何だろうか? おそらく見たことのある人でなければ分からないだろうが、これは樹齢500年を超えるクスノキで、彫刻の原木(径1.9m)として平櫛田中(ひらくしでんちゅう)が1972年に買い入れて十分に乾燥させるために保存していたものである。

 

 平櫛(1872-1979)は東京美術学校(東京藝術大学)に近い上野桜木町に居を構えて活動していたが、玉川上水がすぐそばを流れる学園西町(小平市)の閑静な土地が気に入って隠居後のために買い求めたのは1937 昭和12年のことだった(面積550坪弱)。しかし彫刻家としての活動が多忙で元気だったせいかこの土地に居宅を建てて生活するようになったのは1970 昭和45年のことだった。98歳だったので九十八叟院と名付けたという。

 

 玄関を入るとまず目に入るのが写真の色紙である。「いまやらねばいつできる わしがやらねばたれがやる 九十八翁 中書」とある。この居宅での生活が始まった年である。今のように長寿が当たり前ではなかった時代に発揮されたこの強烈なエネルギーには圧倒される。

 

 最晩年を過したこの小平の居宅でも制作は続けられたが、保存した大木は残念ながら使用することなく1979 昭和54年に107歳で亡くなった。当時の男性日本一の長寿だったそうだ。まさに色紙の言葉を身をもって示した生涯だった。

 

 

 

 

 

 平櫛田中は岡山県井原市の田中家に生まれ、平櫛家の養子になった。大阪で木彫を学び、やがて上京して高村光雲の指導を受け、弟子たちと切磋琢磨して腕を磨く一方、岡倉天心に師事して大きな影響を受けた。東京藝術大学の構内には平櫛作の天心像が今も置かれている。また臨済宗の僧西山禾山(かざん)に明治末年に参禅している。

 

 後には東京美術学校で後進の指導にもあたったが、平櫛は明治・大正・昭和の三代にわたって木彫彫刻の世界で伝統の近現代でのありようを追求して己の作品世界を創り出したと言えよう。

 

 平櫛田中の没後、敷地の一部に地上2階、地下1階の作品展示部分を造って居宅と作品の公開をしてきたが、遺族から作品の寄贈を受けて2006 平成18年に現在の小平市平櫛田中彫刻美術館となった。今年は平櫛田中の生誕150年にあたり、秋に特別展が開かれた。なお出身地の井原市にも市立田中美術館がある。

 

 特別展では初期の作品から晩年のものまで多くの作品が展示されて、平櫛田中の彫刻世界を味わうことができたが、会場での撮影は出来ないのでここで紹介できないのが残念だ。

 

 作品は、初期の幼児・小児の素朴な姿の巧みな表現、明治末からの作品にみられる精神性の深まり、大正・昭和の頃から増える人物像・彩色像と、限られた数の作品の展示ではあるが彫刻家としての平櫛の歩みをみることができた。

 

 とりわけ注目したいのは作品制作過程の変化で、原木から彫りだす伝統的な手法の他に、粘土で原型を作って石膏にとり、それを特殊な器具を使って原木に移して仕上げるといった手法(星取り法)が行なわれるようになったことである。これは彫刻における大理石像とその制作の過程が同じで、作者の制作過程における自由度が増すことになる。またブロンズ像を造ることも可能になった。

 

 

 

 

 

 平櫛田中の代表作といえば、国立劇場に展示されている「鏡獅子」だろう。この作品は高さ2mの大きな彩色像で、歌舞伎の六代目尾上菊五郎をモデルに20年以上かけて1958 昭和33年に完成したが、菊五郎はすでに亡くなっていた。この像を造るにあたって、平櫛はモデルの骨と筋肉の動きをつかむために菊五郎の裸体像をいくつも作ったことが知られている。

 

 近代の彫刻家を代表するロダンが、あのマントをまとって大地を踏みしめるように立つバルザック像を制作するにあたって、大小いくつものバルザックの裸体像を制作していたことをパリのロダン美術館でみた時の驚きを思い出した。平櫛の彫刻世界が決して特殊、日本的な木彫制作ではなくて、近代の彫刻に通じるものだということをあらためて感じたのだった。

(写真のいくつかは美術館のパンフレットから借用した。)