藤沢周平(小菅留治)がまだ作家になる以前、故郷山形県の中学校教員だった頃に結核によって休職し1953 昭和28年に上京、今の東村山市にあった病院で治療して元気なったことについて、かつて「藤沢周平と俳句」という小文で紹介した。

 

 彼が入院した篠田病院という結核療養所は今はないが、私の住んでいる家のすぐ近くにあってすぐ脇を野火止用水が流れており、辺りは入院患者のよい散歩道だったこと、また彼が手術をうけた保生園病院は同じ市内の樹木の茂った丘陵の麓にあったが、こちらは新山手病院と名称は変わったが今も総合病院として存在していることなどについて、同じ市内のことなので何となく親しみを込めて書いた。藤沢がまだ26歳の青年時代のことである。

 

 ところで私事になるが、9月に残暑とコロナ禍で体調の異変を感じ、夏バテかと思ってかかりつけ医に診てもらったところ、病院でちゃんと診察してもらいなさいと紹介してくれたのがなんと新山手病院だった。10月の初めに診察を受けたらすぐ入院しなさいとのこと。息苦しくて夜よく眠れない日が続いていたのだが、医者の診断によれば頻脈性不整脈とうっ血性心不全という事だった。

 

 幸い治療は順調にいって 2週間の入院で退院できたのだが、なんでもコロナのせいにして運動不足や健康管理の不足だったことを思い知らされたのだった。

 

 それにしても藤沢周平と同じ病院に入院するとは。不思議な縁に驚いているのはどうやら私だけで、お世話になった看護師をはじめ病院で働いている人たちは何も知らないだろうし、関心もないだろう。しかし病院の出入り口の近くにある池(写真)はだいぶ荒れてはいるが藤沢も眺めたろうし、すぐ傍に建つ1939 昭和14年建立の石碑もすでにあったわけだから眺めたことだろう。そこには、第一生命保険相互会社が結核対策に財団法人保生会を1935 昭和10年に設立して理想的な保養所の完成をみたが、1939年に財団法人結核予防会に寄付した旨が記されていた。藤沢はいい病院で手術を受けたことが分かった。敷地が広いので病院の建物はみな2階建て、長い廊下が印象的だった。

 

 という訳で、「藤沢周平と俳句」をリブログします。