日本には数えきれないほどの峠があるが、そのどれにも悲喜こもごもの話が伝わ

っていることだろう。これから紹介する峠もそのような一つだ。

 

 20万分の1地勢図(国土地理院)「長野」を広げると、左隅に「保福寺峠」(ほうふくじとうげ)がある(1345m)。今でこそ忘れられたような存在だが、江戸時代に中山道が整備されるまでは西日本と東日本を結ぶ主要な道路の一つだったので人の往来が多かったことだろう。

 

 最近岡田喜秋の『定本 山村を歩く』(ヤマケイ文庫)を読んだら、「保福寺峠の瞑想」という一文が収録されていたので早速読んでみた。岡田は日本交通公社(当時)の雑誌『旅』の名編集長として知られていた。昭和30-40年代のことである。

 

 高校時代(旧制)を松本で過ごした岡田だが、ある時保福寺峠に登っていないことに気づいて行ってみることにした。この本は最初は1974年に出版されたそうだから、峠に行ったのはそれ以前のことになる。50年位前のことだろうか。

 

 峠は信州の上田と松本を結ぶ道にあるのだが、岡田は松本からバスに乗って終点まで行った。そこには峠の名前となった保福寺という古寺があった。旧道を辿って歩き始めた岡田だがやがて道はダム湖に沈んでしまっていることを知り、やむなく車の通れる林道を歩いて峠に着いたのだった。峠に近づくにつれて背後に北アルプスの眺めがせりあがってくるのだがそれは岡田の本に任せよう。

 

 保福寺峠と言うと山好きには何と言っても明治時代に北アルプスを目指した牧師・登山家ウォルター・ウェストンが上田の方から登って、初めて見る日本のアルプスの山々に感動した峠として知られている。私もその一人で、若い頃に上田方面から入って田沢温泉に泊まり旧道を辿ってウェストンのように峠を目指したことがあった。途中にはまだ馬の水飲み場などが残っていた。

 

 

 

 

 

 よく知られたことだがイギリスの牧師・登山家 ウォルター・ウェストン Walter Weston(1861-1940)は 3回日本に来ているが(1888-95 1902-05 1911-15)、その日本での様子は『日本アルプス-登山と探検』(岡村精一訳 平凡社 1995年)その他に書かれている。

 

 日本に来て初めてのアルプス探検の旅は1891 明治24年 7月の終りだった。一行は東京から鉄道で軽井沢に入り、上田から保福寺峠をめざしたのだった。

 

「午後一時少し過ぎ、私たちは人力車に揺られながら、上田の町をいだいている山で囲まれた渓谷を横切って行き、保福寺峠を越え松本へと西に走る道に沿っていた。…屈強な二人の車夫は浦野までなんの苦もなくずんずん走れた。…浦野からの道路の表面は年月を経て起伏ができたり、雨が降るたびに造られる小さな激しい流れで痛められたりして、不愉快なほど凸凹になっていた。

 

人力車は、雨で洗われて土から露出した大石の上を、いかにも苦しげにがたがた進むので、峠の頂上まで歩いてやって、車夫の骨折りを軽くし、また乗り手である私たちの苦しさも軽くしようと決心した。その険しい道は、六キロのあいだ、ほとんど木のない丘陵をのぼって行った。そののぼりは、何もない草だけの斜面にかかったり離れたりうねうねして行ったが、その斜面は火山岩燼(もえがら)でできていて、午後の暑い光をまともに受けていた。午後六時に、海抜一三五○メートルの山頂に着いた。それから、その尾根の割れ目の右側にある小さな円い丘に立つと、あの大連峰の全景が始めて眺められたが、その景観にわれわれの心はひきつけられた。

 

 私たちは、思いがけなくその展望に接したので、その壮麗さにはただ驚嘆するばかりだった。その連峰の中央部と南部全体は、足の下に広々と拡がる松本平とそのかなたの淋しい飛騨の国とのあいだに、一つの大きな障壁のように、西の方の前面にそびえていた。高さ三〇〇〇メートルないしそれ以上の雪襞のある尾根や気高い峰々が、落日に映えたオパール色の空を背景に、紫の輪郭も鮮かにそびえている。日本のマッターホーンである槍ヶ岳やペニンアルプスの女王ワイスホーンの縮図を想わせる優美な三角形の常念岳、それより遥か南のほうには、どっしりした双峰の乗鞍岳がそびえ、それぞれ特徴のある横顔を見せている。…この峠の頂上近くの西側で源を発した急な流れのそばの険しい石路を足早におりて行くと、いつしか保福寺という古風な村に、暗闇につつまれて着いた。…午後十時に松本の町はずれに着いた。」

 

 峠でのウェストンの感動は有名だが(現在絶賛の碑が峠に建っているようだ)、険しい峠への道を人力車で登ったというのには驚いた。車夫の体力には驚嘆する。上の地勢図「長野」(国土地理院20万分の1 昭和29年編集、昭和37年修正)をみると、峠から麓の入奈良本への道は等高線のやや広い緩斜面を一気に、直線的に通じている。ほぼ旧道と同じかと思われるがこれを登るのは楽ではないだろう。もう一つは林道の通った後のもので(国土地理院20万分の1 昭和29年編集、昭和50年修正)、旧道は消えている。林道が完成したのは1963 昭和38年だが、昔の幹線道路にも関わらず上田・松本間のバスが通らなかったのは車の通る道を造りにくい地形だったからだといわれる。

 

 日没近いアルプスの眺めに感動したウェストンらは、真っ暗な田舎道を歩いて松本に着いたようだが、その夜にはたしてどんな夢をウェストンはみたのだろうか。

 

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 松本から保福寺峠を越えて東京を目指した人たちのことにも私の心惹かれる話がいくつもある。

 

 その一人に荻原守衛(碌山 1879-1910)がいる。松本の少し北、穂高出身の青年で自分の将来について迷いの多い年頃だった。1898 明治31年秋養蚕・機織りの盛んなとろで修業しようと密かに家を出て保福寺峠を越えて上田まで来たところを追いかけてきた父親に家に連れ戻されるといったことがあった。この時は残念・無念の涙の峠であった。彼の没後に編まれた遺文集『彫刻真髄』冒頭の「荻原守衛君伝」(筆者名なし)に次のように書かれている。

 

「君は明治三十一年(二十歳)の秋の頃少し心臓を病んで松本の医師にかゝった。

君は或時松本行の名で出発して桐生足利地方の機業家へ奔らんと考へた。機業家で身を立てやうと考へたのだとも言ひ、或は何か外に考へがあって機業家に依らんとしたとも云ふ。

此事は密に井口先生及び親友西沢築氏だけに話して、直に保福寺峠を越して上田町に一泊し、翌朝汽車に乗らんとすると

『こら守衛何処へ行く!』

と停車場の中から声を掛けたのは豈図らんや父君であった。密謀が泄れて父君が夜通しに追って来たのである。

君すごすご父君に随って帰郷した。 (中略)

君の熱心にして撓まざる希望は遂に親達を動かして、三十二年の秋、美術家となるべく上京するを得た。君の欣喜実に思ふべし。」

 

 しかし翌年秋には画家になる決心をして家族・友人らに見送られて今度は喜びの峠越えをしたのだった。あいにく雨の降る日だったが、東京に着いた守衛は郷里の師井口喜源治に次のように書き送った。峠の上り下りの辛さをしきりにこぼしている。( 『荻原守衛の人と芸術』碌山美術館編)

 

「かくて十二時五分、会田着。日本一の豆腐汁に腹を温め、いよいよ寺蔵(意味不明)たのむで山を越えんとす。幸雨は略々止めり。格別悪からず。二時に観音の隧道、四十分に切通しに達し之よりは下る一方。

あゝ路も上りがなくばなくばと思ふが人情、而して下りのみならば地獄の底に行くより外なし。骨々を折る水上る間こそ人間の光、既に頂上に達せりと思へば、之より下り路、殊に雨はあがり急げばすべる。下りにかゝりてわれは頂上に達せんと思ふ間の希望と喜びの、下りの楽に優る幾倍かなるを思ふ。四時半青木着…六時過ぎ上田着。」

 

 上京した守衛は明治女学校の校長巌本善治らと相談して小山正太郎の不同舎で絵画を学ぶことになり、女学校内に住むことになった。やがて渡米・渡仏して絵の勉強を続けたが、ロダンの彫刻に感動して彫刻家への転進を決意、日本における近代彫刻確立の先駆者の一人となったが、その辺の事情はすでに別の文章で紹介しているので省略する。

 

 この荻原守衛やウェストンの例を見ても明治30年前後には松本周辺から東京へ出るのも、東京から来るのも保福寺峠越えの道が普通だったことが分かる。そこで当時の鉄道事情を少し探ってみよう。

 

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 まず、峠を越えて着いた上田から東京への鉄道はどうなっていたのだろう。

長野方面から上田を通って軽井沢までの鉄道は1888 明治21年には開通し、横川から高崎方面は1885 明治18年には開通している。問題は軽井沢・横川間の碓氷峠だが、碓井馬車鉄道が1888 明治21年9月に開通した(19.1km 1893 明治26年4月廃止)

 

 従って1891 明治24年 7月に軽井沢に向かったウェストンはこの馬車鉄道に乗っている。『日本アルプス-登山と探検』には次のように書かれているが、馬車鉄道の乗車記というのは大変珍しいのではないだろうか。新緑や紅葉の季節ならばさぞ素晴らしい景色だろうと思うが、どうも景色を楽しむような乗り物ではなかったようだ。

 

「私は日暮れ前に目的地―軽井沢―に着きたいと思い、鉄道馬車に乗ることに決めた。この鉄道馬車は、当時碓氷峠の羊腸としたうねり路をのろのろと這い上り、一二〇〇メートルに近いその最高点に達し、それから丘陵に囲まれた平原へと急におりるのであった。この旅程はわずか二十キロに過ぎなかったが、この際は、三時間近くもかかった。車は小さくて軽く、非常に不愉快でもあった。その上線路はかなり狭い路の上にしっかりとは敷かれていなかったので、それに乗って行くのは、ずいぶんはらはらさせられた。車は何度も何度も脱線するので、人夫の役もする車掌が、車輪を線路の上に押し上げるのに小さな鉄梃(かなてこ)を用意していた。」

 

 そこで横川・軽井沢間の水平距離 9.2km 高低差 553m の急勾配を一本のレールでつなぎたいという願いから実現したのがアプト式で、1893 明治26年 4月に開通した(1912年電化、1963年アプト式廃止)。保福寺峠を越えて上田まで行けば東京はそんなに遠くはなかった。

 

  では鉄道だけで松本から東京へ行けるようになるのはいつ頃だろう。まず考えられるのは、松本-篠ノ井-上田-軽井沢といったルートだが、松本駅が開業した1902明治35年 6月には利用可能だった。しかし所要時間・利用料金の点でどうだったろうか。次に考えられるのは松本-塩尻-辰野-上諏訪-甲府といったルートだが、辰野が開業する1906 明治39年 6月までは利用できなかったようだ。参考までに松本・上田間の路線バスが開通したのは1947 昭和22年である。

 

 いずれにしても明治末年になると、松本周辺の人たちは鉄道だけで東京との往来ができるようになっていた。そのため峠を行き来する人影は少なくなり、やがて峠は忘れられたような存在となっていったのだろう。