コロナウィルスの感染が少しおさまってきたので久しぶりに倉敷を訪ねようと新倉敷駅(山陽新幹線、元は玉島駅)に降りたのは八重桜が見頃な4月半ば過ぎだった。好天に恵まれたので迎えの車に良寛ゆかりの円(圓)通寺に寄ってもらったが、緑の美しい境内には本堂・良寛堂・良寛像などが変わることなく静かに建っていた。

 

 初めてここを訪ねたのは寒い冬の日だったが、その時のことはすでに「玉島の良寛」に書いたので、今回はその文章の増補と写真の紹介とする。「玉島の良寛」と併せて読んでいただけたらと思う。

 

 

 

 

 

 まず良寛堂の前に建つ良寛自筆の詩碑だが、前回は次のように紹介した。難しい漢字が多いが常用漢字のあるものはそれに直し、読みは『良寛詩集』(岩波文庫)のままなので歴史的かなづかいとなっている。

 

憶在円通時 恒歎吾道孤 運柴懐龐公 踏碓思老廬 入室非敢後 朝参常先徒 一自従散席 悠々三十年 山海隔中州 消息無人伝 感恩竟有涙 寄之水潺湲

 

(憶ふ円通に在りし時 恒に吾が道の孤なるを歎ぜしを 柴を運んでは龐公を思ふ 碓を踏んでは老廬を思ふ 入室敢へて後るるに非ず 朝参常に徒に先んず 一たび席を散じてより 悠々たり三十年 山海中州を隔てて 消息人の伝ふるなし 恩に感じて竟に涙あり 之れを寄す水潺湲)

 

 そこで現代かなづかいに直して難しい漢字に読みを補うと次のようになる。

 

(憶(おも)う円通に在りし時 恒(つね)に吾が道の孤なるを歎ぜしを。柴を運んでは龐公(ほうこう)を懐(おも)い 碓(うす)を踏んでは老廬(ろうろ)を思う。入室敢(あ)えて後るるに非ず 朝参常に徒(と)に先んず。一たび席を散じてより 悠々たり三十年。山海中州を隔てて 消息人の伝うるなし。恩に感じて竟(つい)に涙あり 之れを寄す水潺湲(せんかん)

 

 さらに詩の内容を説明するならば次のようになる。(『良寛へ歩く』小林新一 二玄社 による)

 

 円通寺で修行のころは自分の性格が他人とは違うことを悩んでいた。作務(さむ)をしている時は柴を運んだ龐公が作業で仏心を会得したことを思い、六祖慧能(えのう)がやはり作業から悟りを開いたことを学んだ。早朝の座禅では人に負けず参加して、師の教義には誰よりも先に。あれから三十年、師国仙の恩を想うと涙がいっぱい。最近の円通寺の様子はどうなのであろうか。

 

 もう一つ紹介した漢詩についても補っておきたい。

 

自来円通寺 幾度経冬春 衣垢聊自濯 食盡出城闉 門前千家邑 更不知一人 曾読高僧伝 僧伽可清貧(『良寛詩集』 岩波文庫)

 

(円通寺に来ってより 幾度か冬春を経たる。衣垢づけば聊(いささか)(みづから)(あら)い 食盡くれば城闉(じょういん)に出づ。 門前千家の邑(ゆう) 更に一人を知らず。 曾て高僧伝を読む 僧伽は清貧を可とす。 

 

 円通寺に来てから幾年が過ぎ去った。円通寺の丘から見下す玉島の町並は千軒ばかりの家が連なるが知らない人ばかり。洗濯をしたり托鉢をしたり、高僧伝を読んでみれば僧侶は清貧をよしとする。(『良寛へ歩く』 小林新一 二玄社)

 

 

 

 

 

 

 

 

 本堂の手前やや低いところに池があり、斜面を利用して巨岩を積み上げるように配したその力強い表現には圧倒される思いがする。

 

 この池のすぐ近くに種田山頭火(1882~1940)の句碑が建っていた。

 

     岩のよろしさも 良寛さまのおもいで

 

 山頭火は諸国放浪の自由律俳人だが、玉島へは1936 昭和11年に来たという。句碑は1992 平成 4年に建てられた。

 

 門前からの玉島の町の眺めにはもはや良寛の時代を想像させるようなものはなく、遠く水島の工場の建物や煙突ばかりが目についたが、近くでなく鴬の声にいっとき慰められたのだった。

 

* * * * * *

 

 円通寺で手に入れた「中国観音霊場会 観音だより」(2022/3/15)に次の声明文が載っていたので紹介する。円通寺は中国33観音霊場の第7番の寺院になる。

 

「「命あるものを殺すまじ 殺させまじ」との仏陀世尊の不殺生戒を最高最善の禁戒と仰ぐ仏教徒として、いかなる武力による威圧、制圧行動に反対する。戦禍に巻き込まれて罪なき子供や老人をも殺戮する、醜い戦闘の惨さと愚かさに当事者は目覚め、先ずは人道的立場に立ち即時に停戦すべきである。そして慈悲心に根差す叡智によって平和的解決に至ることを心より切望する。そのために平和を希求する全世界の人々と連携し、ウクライナの平和を取り戻すために、あらゆる平和的手段を講じて一致協力することを表明する。」