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 よく知られている良寛が国仙和尚に従って岡山県玉島の円通寺に向かったのは1779 安永8年、22(数え)の時である。新潟県出雲崎の名主の家に生まれたが訳あって出家し、たまたま出会った国仙和尚のもとで修行するためであった。

 

 故郷を遠く離れた円通寺での厳しい修行は10年を越えたが、国仙から偈(げ)を与えられたのは1790 寛政 2、良寛33歳の時である。禅僧として一人前になったわけだが、その翌年に国仙が亡くなり、良寛は寺を出てやがて故郷の五合庵に住むようになったのは40歳の頃といわれる。

 

 有名なわりには謎の多い良寛の生涯だが、この円通寺での生活もほとんど分かっていない。わずかに良寛自身の漢詩によってその一端が偲ばれる程度だ。わりと近くの同じ宗派の寺の古い記録に、その寺の住職の葬儀の際に手伝いに来た僧侶の中に良寛の道号 「大愚」 が発見されたのは1998 平成10のことである。

 

 7年前の冬に円通寺を訪ねた。江戸時代には千石船が寄港して大変賑わったという高梁川の河口に位置する玉島の町を見下す高台(写真下)に草葺の大きな屋根を持つ本堂と良寛堂が建っていた。

 

 本堂の前左手には良寛の像が建っていたが、その説明には、「良也如愚道転寛…」 の印可の偈(げ)を紹介し没後150年を記念してこの像を建てたとある。修行に励む青年僧良寛の姿である。偈にある 「「愚」 とは純粋で梃でも動かぬ頑固さと、組織になじまない自由な精神を愛する良寛さんの性格を見抜いた表現であろう」 と 『良寛の四季』(荒井魏、岩波書店)に書かれている。

 

 本堂の左に建つ良寛堂は、もとはこの寺で修行する僧たちが寝起きする衆寮で、良寛の時代を伝える唯一の建物だそうだ。その前に建っているのが写真の詩碑で、ここで修行したときを回想した良寛の漢詩が彫られている。

 

 良寛独特の線の細い文字だが、楷書ならともかく草書ではとても読めない。説明がないので『良寛詩集』(岩波文庫)を見ながら読んでみた。字が抜けていたり、別の字と思われる箇所もあるが 『詩集』 によると次のようになる。

 

憶在円通時 恒歎吾道孤 運柴懐龐公 踏碓思老廬 入室非敢後 朝参常先徒 一自従散席 悠々三十年 山海隔中州 消息無人伝 感恩竟有涙 寄之水潺湲

 

(憶ふ円通に在りし時 恒に吾が道の孤なるを歎ぜしを。 柴を運んでは龐公を思ひ 碓を踏んでは老廬を思ふ。 入室敢へて後るるに非ず 朝参常に徒に先んず。 一たび席を散じてより 悠々たり三十年。 山海中州を隔てて 消息人の伝ふるなし。 恩に感じて竟に涙あり 之れを寄す水潺湲。)

 

 円通寺での良寛の孤独な、真面目な修行時代回想の詩とわかる。同じく回想の詩として次も知られている。

 

自来円通寺 幾度経冬春 衣垢聊自濯 食盡出城闉 門前千家邑 更不知一人 曾読高僧伝 僧伽可清貧

 

 最後の一句、「僧伽(僧侶)は清貧を可とす」 は、まさに良寛の生涯を通じて実践されたといえよう。

 

 いくつもの寺の住職を経て僧侶としていわゆる出世の道をとるか、一介の僧侶として清貧の道を選ぶか、人生の岐路に立って後者の道を選んだ良寛を思い、あらためて己のこれまでの歩んだ道を振返る思いを深めたのだった。大きな石に囲まれた池にアヤメが数輪寂しく咲いていたのが印象的だった。