山上の城として知られる備中松山城の麓にある頼久寺は、1339 暦応 2年に足利尊氏が再興して備中安国寺としたと伝えるが、その後永正年間(1504-21)に松山城主上野頼久が支援して寺観を一新したので以後安国頼久寺と寺号を改称したという。

 

 さらに時代を経て1600年前後、秀吉・家康の時代に松山城主となったのが小堀正次・政一父子で、子政一が後の小堀遠州(1579-1647)にあたる。彼は荒廃していた城の再興に尽力するとともに頼久寺の大刈込み・枯山水の庭園も造ったと伝えている。

 

 この頼久寺を初めて訪ねたのは何年も前の寒い冬の一日だった。冷え切った書院に一人座り込んで心ゆくまでこの庭園の冬の眺めを味わったのが大変印象に残っていた。この時のことはすでに 「頼久寺の庭」 と題したエッセイを載せているが、春の盛りに高梁に行く機会を得てあの庭園の春の眺めを味わいたく立ち寄ることにした。

 

 あのツツジの大刈込みの眺めは、枯山水の庭園全体の印象はどうだろうか。

 遠景も含めて庭全体は暖かい春の緑に包まれて輝いていたが、大刈込みのツツジの花はごく一部にみられるだけで期待したほどではなかった。どうもツツジというのは私の思い違いで植えられているのはサツキらしい。とすればもう少し後に花の盛りを迎えるのだろうか。

 

 あらためて庭を眺めてみよう。

 正面の愛宕山とその手前の山の木々の緑を遠景にして、庭は大小さまざまな刈込みの緑と岩と砂の落着いた色と形の組合わせで構成されて、山と海の大きな自然を表現している。

 

 左手の山肌には大海原の波のうねりを思わせる大刈込み、その上には高い塀のようなツツジの2段の刈込みが外界を断ち、正面には岩と刈込みで造られた鶴島と亀島がある。庭は左から正面・右へと、刈込みの大と小、高低、曲線と直線の変化が見事なまとまりを示し、手前から彼方へ広がる大海原はほどよい遠近感を以て広がり、方形のいくつもの踏石で眺めを引締めている。

 

 実によくできている庭と感心するが、ふとこんなことを考える。

 もしこれが小堀遠州の作庭とするならば400年は経っていることになる。樹木は日々絶え間なく成長するから、目の前にある刈込みが当初のものであるか、何回か植え替えられたものであるのか分からないが、どちらにしても400年もの間維持することは、ほとんど岩と砂だけの枯山水庭園を維持するのとは大変な違いがあるだろう。並大抵な事ではないことと頭の下がる思いがする。

 

 庭園史の研究家であり造園家でもある重森三玲(1975年没)はその著 『枯山水』 (河原書店 1965年)に、「日本の庭は、国土が四周海に囲まれた美しい大自然の環境に恵まれている関係から、海景の美を再現することに主力が注がれて来たのであって、そのために海の景を表現する意味から、池庭を作り、島を浮かべることが基本とされたのであった。」「池庭を作りたくとも、水の便を得ない場所では池庭は不可能である。だが庭園の発生における本来の意味が山水としての水に重点があったのであるから、水を用いない庭にも、何らかの意味で水の表現を希望したのであった。その不可能を可能とすることが、枯山水で創意され、水を象徴的に、又は抽象的に扱うことに努力が注がれたのであった。」と書いている。


 そして室町時代の東山時代(15世紀後半)以降を本格的な枯山水の造られた時期として、「池庭とは全く異質的であり、別な立場にあって作庭された劃時代的なものであり、内容も構成も特色あるものとして出現したのである。」とも述べている。

 

 重森は頼久寺の庭を桃山時代の庭の一つに数え(小堀遠州の時代)、この時代の庭は53あるがそのうち枯山水が27あり、「枯山水が、室町期の発生時代においては、禅宗特有の庭園であったのが、桃山期では、各宗寺院の庭園や、城郭の庭園として発達したことがわかり、しかも、これらの各宗庭園も共に、当代武家の背景によってのみ完成されていることをしるべきである。」と述べている。

 そして大刈込みは桃山時代の枯山水で全盛を極めたとして、「中でも頼久寺庭園の大刈込のごときは、各時代の庭園における全国庭園中第一位といい得るほどの立派なものである。頼久寺庭園の大刈込にあっては、庭園背後の竹林の麓に椿の一色による一直線状の大刈込を作り、その下部には、皐月や、躑躅の類による大刈込を作り、更に庭中の鶴島等を囲む大刈込が作られている。」「頼久寺庭園の大刈込のごときは唯一の保存といわねばならない。」と高く評価している。

 また、東山時代以降の「新しく創作された枯山水は、従来の庭園と比較して、奇想天外な作品として誕生し、創意にあふれた永遠のモダンが内在的に発展したのであった。銀閣寺庭園の砂壇や、竜安寺庭園や、大仙院庭園の石組、さては頼久寺庭園の大刈込等に見られるごとく、創作力に満ちた、時には象徴的、時には抽象的な超自然主義に通じる意欲的な作品が、次から次へと発展して行ったのであった。」とも書いている。(重森の著書からの引用は前のエッセイでもしている。)

 

 

 

 

 

 中庭に佇む石灯篭には1339 暦応 2年の銘が刻まれているそうだ。尊氏による同寺再興の年である。頼久寺の歴史の証人といえそうだ。また石橋の上の小さな仏さんにはほっとした安らぎを覚えた。

 

 京都などの有名寺院と比べるとあまり知られているとはいえない地方の寺院で、こうした素晴らしい庭園に巡り会えたことに感謝の思いを深くして2度目の頼久寺を後にしたのだった。

 

 

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