ちょっとお洒落なJR豊科駅(とよしなえき)は松本(長野県)から北上する大糸線の駅で、松本から20数分で到着する。元は豊科町だったが今は2005 平成17年に隣の穂高町など3町2村が合併して出来た安曇野市(あずみのし)になっている。

 

 駅に降り立つと2体の裸婦像が出迎えてくれる。左が「空」(1978年)で右が「地」(1978年)、どちらも高田博厚の作品である。なぜここに高田の作品があるのかと言うと、写真の広い道を左前方にしばらく歩くと豊科近代美術館があることとの縁だろう。

 

 

 

 

礼 拝 1982年

 

 

水 浴 1969年

 

 

 

 

 

 

 1992 平成 4年に開館したこの美術館はヨーロッパ中世の修道院を模した建物で、広い敷地に異国の雰囲気を漂わせているが、中庭を囲む回廊と展示室には彫刻家高田博厚の多くの作品が展示されている。中庭と回廊の石が造り出す形、程よい光による明暗、その静寂な空間は、ここが日本であることをしばし忘れさせてくれる。(豊科駅駅舎の外観は2010年に改装したそうだが、この美術館が意識されているのではないだろうか)

 

 石川県七尾に1900 明治33年に生まれて福井市で育った高田は、恐ろしく早熟で多才な少年であり青年だった。早くから書物を多読し、語学の才能にも恵まれ、美術への関心も深かった。12歳で洗礼を受けて教会での活動も普通の信者以上だったという。

 

 1918 大正 7年には東京美術学校を受験したが失敗し、その翌年東京外国語学校イタリア語科に入学、その才能の一端は1922 大正11年にコンディヴィの 『ミケランジェロ伝』 の翻訳を岩波書店から出版したことからも分かる。22歳の時である。この頃から彫刻を作り始めたようだが、自伝 『分水嶺』 には次のように書いてある。

 

 「二十歳の年から彫刻を続けていたが、展覧会に出品もせず、美術界や文壇などとは全く縁がなかった。(中略) 唯一の先輩友人は高村(光太郎) で、これとは繁く会い、語り合い、作品を見せ合った。すでに有名な彼も世間に出ようとはしない。無名の私はもちろん。それでいて、展覧会の季節になり、新聞にでかでか名が出、絵はがきになったりするのを見ると、馬鹿にしながら、すこし淋しかった。」

 

 当時の作品 「古在由直像」(1927) を見ると相当の水準にあったことは確かなようだ。やがて1931 昭和 6年に妻子を日本に置いてフランスに渡り、第2次世界大戦前夜から戦中、戦後のフランスでさまざまな経験をしながら多くの芸術家や知識人と交流し、作品を発表してきた。やがて1957 昭和32年に帰国を決断して作品のほとんどを破壊してしまった。だから今日見られる彼の作品はそのほとんどが帰国後に制作したものである。帰国した時には57歳、26年余のフランスでの生活だった。下村寅太郎は高田の著書 『人間の風景』 に寄せた一文で次のように書いている。

 

 「明治以来、ヨーロッパで生活した日本人は無数である。しかしヨーロッパを生活し、生活を通してヨーロッパを思索した人は少ない。これを達成せしめた幸運の一つは高田さんが彫刻家であったことである。(中略) 四千冊の書物を携えて帰った。高田さんは学者ではない、読書家である。そして芸術家であることによって思想家になった。日本では思想家である芸術家のいかに乏しいことか。」

 

 帰国後は鎌倉のアトリエで彫刻の制作に励むとともに美術界でさまざまな活躍をしたが、これまでの彼の生涯と豊科町との接点はなかった。高田は1987 昭和62年 6月 86歳で没したが、豊科の美術館の完成とともに関係者を介して現存する作品のほとんどを美術館が所蔵することになった。かくて彫刻家高田博厚の全体像を見ることがこの美術館だけで可能となり、隣町穂高の碌山美術館にある荻原守衛(碌山)の作品及び関係ある彫刻家の作品と並んで、日本近代彫刻の作品の多くがここ安曇野に集まることになった。この両者に深い関係があったのが高村光太郎だった。(脱線するが光太郎の、あるいは光太郎と智恵子の美術館が東京にできないものかとかねて思っている。)

 

 高田博厚の作品は首や上半身の像が多いことで知られているが、女性の全身または胴体(トルソ)の裸像もずいぶん制作している。彼は次のように述べている。

 

 「私は肖像彫刻専門のように見られているらしいが、私にとっては人間の顔も裸の体も同じ感覚で受け取るので区別はない。ただ裸は普遍的に見え、顔は個性的と見える。私がもっとも苦労しているのは、この個性的なものをどうして普遍感にまで至らせるかにあり、似せることを忘れてしまうほどに、ただ人間の顔でありたいことである。中身のある顔、言いかえると思想のある顔でないと、こちらがとことんまで突込めない。私にとって破型(デフォルマシオン) の美しさは、この普遍化するまでの突きこみ方から出るのであって、深浅を量る基準は常に即物にある。」 (開館記念特別展図録より)

 

 「私は人体、とくに女体と共に、肖像をたくさん作る。知名の人びとの肖像が多いが、それは彼らが知名だから作るのではない。対象が、黙っていて、内から語りかけてくるものがないなら、「彫刻」 の素材とはならぬ。画家が一定の額の中に、風景や静物や人物を構成するように、彫刻家は内部のものが形を構成する知恵を学ぶ。この意味で、私にとって人体も肖像も同じことである。「形」 とは内部から押し出る力の極限限界なのだ。これを捉えること、すなわち、内部の力を一元的な形体、簡潔率直な形に要約するのが彫刻であろう。彫刻とは純粋な形而上な術であり、音楽と共通する。」 (開館記念特別展図録より)

 

 展示室内での撮影は出来ないので、渡仏前・滞仏中・帰国後の作品を1点づつ図録から借りて紹介しよう。

 

 

古在由直 1927年

 

カテドラル 1937年

 

ロマン・ロラン 1961年

 

 

 最初は渡仏前の作品で、残っているのはごく少数だがこの古在由直像は貴重な一つ。古在は農芸化学者で後に東京帝国大学の総長になった。この像は古在の首であると同時に命ある人間の存在を表現しているように思う。

 

 次は滞仏中の作品だが、現存するのはほとんどないのでこれも貴重な作品。毀すに忍びなくて持帰ったのだろうか。瑞々しい命の表現が素晴らしいと思う。裸婦像は絵画でも珍しくないが、胴体のみ(トルソ torse) は彫刻独自の表現だろう。著書 『人間の風景』 に次のように書いている。

 

 「またこのトルソ(胴体) の簡潔な美しさ。ロダンもマイヨルもすばらしい胴体を作った。首も腕もない女の 「裸」 は無尽蔵の豊かさを持つ。」 (ブールデル)

 

 帰国後の肖像彫刻には、滞仏中に作ったが毀したものを再び制作したものがいくつもあるようだ。このロマン・ロラン像もその一つ。 『人間の風景』 に次のように書いている。

 

 「彫刻は遂に形相を離脱すべきものであるだけに、私はこの有型以上の何ものかに被われた容貌に、何を捕えるかを知らなかった。しかも私は五度までも、彼のピアノを弾く時の容貌を眼のあたりにしていた。(中略) 斯の魔につかれた者の容貌を私は常に考えていた。(中略) 私の仕事をじっと見ていた彼は不意に、「君は指で思索する!」 と云って笑った。」 (ロマン・ロラン)

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 「安曇野」 と言うと、普通は安曇野市よりは少し広い範囲をさすことが多いのではないだろうか。南北に連なる北アルプスの山々の東側に広がる安曇野は四季の変化に富んだ大変魅力的な地域で、美術館・記念館がいくつもある。何度でも訪ねたい場所の一つだ。

 高田博厚の作品を堪能した後は、昔の民家でやっている蕎麦屋での一休みだった。

 

 

 

 

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