永井荷風が 『断腸亭日乗』 に、「黄昏銀座に往かむとて道源寺坂を下る時、生垣の彼方なる寺の本堂より木魚の音静に漏れきこゆ。幽情愛すべし」(1939 昭和9. 2.18) と坂の風情を書いている道源寺坂を歩き、今に残る昔の面影に感動して偏奇館跡とその周辺を探った 「偏奇館のことなど」 を書いてこのブログに載せたが(2016 平成28. 4.29)、最近再びこの坂道の辺りを歩いてみて、これまで見過していたことがいろいろとあることに気づいた。

 

 

 

 

 

 

 坂道の右手にある高層ビル泉ガーデンタワーの周辺の工事も今は終り、登り口にある西光寺の境内には名残りの紅葉が寂しく色を添えていた。狭い坂道は緩やかに左にカーブしながら道源寺の方に登っていくが、意外と人通りがあるのはビルの地下に地下鉄の駅があるからだろうか(六本木一丁目駅)

 

 坂の上の方にある道源寺の門の手前、坂道の途中に大きな木が立っていたがどうなっただろうか。

 

大きな木はこれまでと同じように立っていた。
狭い坂道にこの大きな木はなぜ立っているのだろう?
根元は高さが 50~60cm はありそうなコンクリートの壁で円く囲まれているので、木の根元は今の道より高いところにある。

ということは昔の坂道を少し削ったのが今の坂道なのだろうか?     

昔の急な坂道を緩やかなものに改修したという話はよく聞くことである。
この坂道の場合はどのような事情があるのだろうか。
坂道は現状では乗用車が1台通れるくらいの幅があるが、坂上に立つ標識には途中の幅が1.3m と書いてある。この木のところである。                                     この木を切れない事情がどうやらあるらしい。      

 

 

 

 

 今のように台地の下にビルや高速道路がなかった時代には、台地の上には大邸宅や普通の住宅が建ち、台地の下には小さな住宅や商家が立ち並んでいたのだろう。そして台地の端の斜面には樹木や草が生い茂る自然が残されていたのではないだろうか。

 

 台地の端に位置する道源寺の坂道は多分こうした街を見下しながら人が上り下りしたのだろう。問題の大きな木の右手には普通の大きさの木や草が生える小さな公園のようになっているが、これは昔の台地の端の名残りではないかと今回気づいた。


 この緑地に接して右にまっすぐ行く道があるが100mくらい行くと泉ガーデンタワーの敷地にぶつかって終っている。そしてこの道に接して大きな高層マンションが聳えている。ところがそのマンションの陰に一軒の家が建っているのに気づいた。個人名の表札があるので住宅に違いない。一軒の家が開発前のままに残っていたのだ。まさにその一軒の家のために道が残っていることになる。開発にあたっての買収交渉に断固として応じなかった人の家なのだろうと推測したが、どうだろうか。

 昔の地図を持出してもう一度眺めてみた。1909 明治42年の一万分の一の地図には、道源寺の近くに何軒もの家が建ち、道が通じている様子が読取れる。おそらく昔は崖に沿って偏奇館の方まで細い道があり、坂を利用するときには荷風もその道を通ったのではないだろうか。


 荷風の住んだ昔を偲ぶのは2つのお寺と坂道のみと思っていたが、もうひとつこの民家とそこへの道(今は立派な道になっているが)が加わり、崖の上にあった偏奇館にほんの少し近づいた思いがしたのだった。

 

 道源寺は坂道の脇を削った敷地に建物が建ち、お堂の前が墓地となっている。だからお堂の背後は軒の辺りが道の高さとなる。坂道はここまで来ると直角に左に曲り、すぐにまた直角に右に曲ってそのまままっすぐにスペイン大使館の脇を台地の上の道まで通じている。(写真)


 道源寺の後のクランク状の曲り道と直線道路はいかにも定規で引いたようで、これまでの自然なカーブの坂道とは違和感がある。1880 明治13年の地図がすでにそうなっているので、直線の道は台地の上を開発するために昔造った道なのだろう。それに対して坂道は、台地の端にまず住み着いた人によってか、道源寺への参道として造られた道なのだろう。この2つの道が繋がって今日に残っているのがこの道源寺の坂道とそれに続く道ではないかと想像してみた。 


 道源寺坂という今に残る昔からの小さな坂道は、こうして現地に立ってよくよく眺めてみるといくつもの不思議-謎に包まれていることが分かる。

 

 

 

 

 

 次にスペイン大使館の前をほぼ南北に通る直線の道路を歩いてみた。この道は、現在の六本木交叉点の方から伸びる舌状台地の一番高いところを通っており、北の方にあたる台地の先端に登ってくる坂が霊南坂と江戸見坂で、この坂の上の標高は地図を見ると 29.3m とある。 明治13年と42年の地図を見るとこの道に面して大山邸・毛利邸・大倉邸・池田邸・梨本宮邸といった大邸宅が並んでいる。しかし今はこれらの邸宅はいずれも姿を消してホテルオークラやスウェーデン大使館、泉屋博古館などの大きな建物が並ぶ通りに変化していた。

 霊南坂の上に行ってみた。直線道路が一気に台地の下に落ちていく。坂の上に立つ標柱には 「江戸時代のはじめ高輪の東禅寺が嶺南院としてここにあり、開山嶺南和尚の名をとったがいつしか嶺が霊となった」 といった説明があったが、左手はアメリカ大使館で警備が厳しくいやな雰囲気だ。 

 

 

 江戸見坂は最初緩やかに下ると少し平坦になる。そこは台地の縁の少し低い台地面にあたるが、そこを通ると坂は左に大きくカーブして一気に下っていく。 標柱には 「江戸中心部に市街がひらけて以来、その大半を眺望することができたために名づけられた坂である」 と説明があった。


 荷風は 『日和下駄(ひよりげた)』 に、「古来その眺望よりして最も名高きは赤坂霊南坂上より芝西の久保へ下りる江戸見坂である。愛宕山を前にして日本橋京橋から丸の内を一目に望む事が出来る」 と書いているが、今はその眺望は失われて大小のさまざまな四角い建物の姿しか見ることが出来ないことを何と言って嘆いたらいいのだろう。

 道源寺坂の道は登りきって少し行ったスペイン大使館の裏で五叉路となる。そこから右に少し下りながら泉ガーデンタワーの裏をゆるくカーブして進む道(泉通り)は開発に伴って出来た新しい道で、先の大使館前の道からは数メートル低い場所にあたる。これが昔あった大邸宅の裏にあたる台地の端の低い面で、開発される前にはここに偏奇館のような住宅がいくつも並んでいたのだろう。道源寺坂の登り口は標高 12.6m だから台地上との標高差は約17m となるが、偏奇館のあった崖の端は少し低いので標高差ももう少し小さいことになる。

 

 泉ガーデンタワーの前に偏奇館跡の標識があるが、本当はもっと敷地の内部の位置にあたるのではないかと思う(写真)。開発は台地を切り崩して、かつて営まれていた人々の生活の跡を永遠に消しさったに違いないとの思いを深くしつつ、コロナ感染を心配しながらの冬の散歩だった。
 

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