高村光太郎の有名な詩集 『智惠子抄』 に含まれる 「九十九里浜の初夏」(1941 昭和16年 5月 全集 第 9巻) という文章に次のような一節がある。

 

「私は昭和九年五月から十二月末まで、毎週一度づつ九十九里浜の真亀納屋という小さな部落に東京から通った。頭を悪くしていた妻を其処に住む親類の寓居にあづけて置いたので、その妻を見舞うために通ったのである。真亀という部落は、海水浴場としても知られている鰯の漁場千葉県山武郡片貝村の南方一理足らずの浜辺に添った淋しい漁村である。

九十九里浜は千葉県銚子のさきの外川の突端から南方太東岬に至るまで、殆ど直線に近い大弓状の曲線を描いて十数里に亙る平坦な砂浜の間、眼をさえぎる何物も無いような、太平洋岸の豪宕極まりない浜辺である。その丁度まんなかあたりに真亀の海岸は位する。」(全集第 9巻 p.319)

 

 大網駅で汽車を降りた光太郎はバスを乗り継いで真亀に向かい智惠子と会った。

 

「妻の逗留している親戚の家は、この防風林の中の小高い砂丘の上に立っていて、座敷の前は一望の砂浜となり、二三の小さな魚家の屋根が点々としているさきに九十九里浜の波打際が白く見え、まっ青な太平洋が土手のように高くつづいて際涯の無い水平線が風景を両断する。 午前に両国駅を出ると、いつも午後二三時頃此の砂浜につく。私は一週間分の薬や、菓子や、妻の好きな果物などを出す。妻は熱っぽいような息をして私を喜び迎える。私は妻を誘っていつも砂丘づたいに防風林の中をまづ歩く。そして小松のまばらな高みの砂へ腰をおろして二人で休む。五月の太陽が少し斜に白い砂を照らし、微風は海から潮の香をふくんで、あおあおとした松の枝をかすかに鳴らす。空気のうまさを満喫して私は陶然とする。」(全集 第 9巻 p.320)

 

 私が訪ねた時の九十九里浜の眺めはまさに高村光太郎のそれと同じだった。

 

 

 

 

 

 

 

         千鳥と遊ぶ智惠子

 

     人っ子ひとり居ない九十九里の砂浜の

     砂にすわって智惠子は遊ぶ

     無数の友だちが智惠子の名をよぶ。

     ちい、ちい、ちい、ちい、ちい —

     砂に小さな趾あとをつけて

     千鳥が智惠子に寄って来る。

     口の中でいつでも何か言ってる智惠子が

     両手をあげてよびかへす。

     ちい、ちい、ちい ー

     両手の貝を千鳥がねだる。

     智惠子はそれをぱらぱら投げる。

     群れ立つ千鳥が智惠子をよぶ。

     ちい、ちい、ちい、ちい、ちい —

     人間商売さらりとやめて、

     もう天然の向うへ行ってしまった智惠子の

     うしろ姿がぽつんと見える。

     二丁も離れた防風林の夕日の中で

     松の花粉を浴びながら私はいつまでも立ち盡す。

                      

                       高村光太郎

 

 

 

 

 

 

 

 詩碑はこの真亀の海岸の小さな砂丘の上に広く大きな海に向かって建っていた。碑の裏側に写真のような階段がつくられている。そして碑陰には草野心平が次のように書いている。

 

「昭和九年五月より十二月迄/高村智惠子真亀納屋に/於て療養す/光太郎もたびたび病妻を/見舞いこの砂浜にたち/妻への愛とこの界隈の風物/は凝って詩集智惠子抄/中の絶唱 「風にのる智/惠子」 「千鳥と遊ぶ智惠子」 /などを生む/この度九十九里町の有志/相計り永く記念する為に/この碑を建つ/昭和三十六年七月」

 

 さらに簡にして要を得た説明文を読めば、この地に詩碑の建った事情は説明を要しないだろう。

 

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 光太郎はしばしば真亀を訪ねると同時に実に頻繁に智惠子の母にはがきを送ってこまごまと気を使っている様子が全集を読むと分かる。幼少時からの親友水野葉舟にあてた次のはがきを読むと当時の光太郎の心情に心打たれる。

 

(前略) いろいろ手を尽したが医者と相談の上やむを得ず片貝の片田舎にいる妹の家の母親にあづける事になり、一昨日送って来ました。小生の三年間に亙る看護も力無いものでした。鳥の啼くまねや唄をうたうまねしているちゑ子を後に残して帰って来る時は流石の小生も涙を流した。」(1934 昭和 9年 5月 9日 全集 第14巻 p.123)

    (引用の詩は原文のまま、他は原則として常用漢字、現代仮名遣いに改めた。)

 

 ところで詩人・弁護士の中村稔はその著 『高村光太郎論』(青土社 2018年 4月)次のように書いている。

 

「作者が見ることのできるのは智惠子の後ろ姿だけである。それでも、後ろ姿をみつめて作者は立ちつくす。 「風にのる智惠子」 も 「千鳥と遊ぶ智惠子」 も 『智惠子抄』 中の感動的な作であり、高村光太郎の生涯の作品を見渡しても印象にのこる作品であることは疑いない。それは愛というものの一方通行的性質をとらえているからである。たがいに愛をかわすことは奇蹟にひとしい。愛とはつねに一方通行であり、無償、むくわれることのないことをその本質としている。」(p.334-5)

 

 はたしてそうだろうか、そう断じることができるのだろうか。