近年再開発が進められているJR渋谷駅(東京)周辺は大きく変貌しつつあるので今はどうなったか分からないが、駅から青山学院大学へ向かう宮益坂を登って行くとその途中にコンクリートの塊のような古いビルがあった。おそらく戦前に建てられた建物なのだろう。静まり返ったビルの2階に “ゆーじん画廊” という小さな画廊がかつてあった。

 

  この画廊は和田敏文によって1976 昭和51年11月3日に木内克作品展でオープンした。私とこの画廊との縁がどのようにして出来たのか今となっては思い出せないが、手元に開廊翌月の12月に開かれた 「木内克・その世界Ⅰ」 展の案内があるので、私は画廊の歴史のほぼ最初から最後までのつきあいとなる。ただし木内克の作品に限ってのことだが。おそらく最初はどこかの展覧会でこの木内克展の案内を手に入れたのだろう。

 

 「木内克・その世界Ⅰ」 展の案内には次のように書かれていた。

 

「ゆーじん画廊のこけら落しを記念して、今回から木内克・その世界Ⅰを開催致します。クレパス・パステルの裸婦像を中心に、軟陶その他を加えた、湧然たる木内克芸術に心ゆくまでふれていただきたいと思います。」

 

 葉書には腰をおろした裸婦の足元に猫のいるデッサンの写真と、「彫刻家のデッサンというものは、日本画のようなデッサンじゃない。彫刻家は即ち立体的につかむことを練磨しなければならない。そうして、彫刻の形の先にあるもの、彫刻の形の奥にあるものをあらわせたら一級だ」 との木内克の言葉が添えられていた。

 

 私はこの第一回展は見ていないので開廊時に展示された木内克の作品がどのようなものであったのかは一年後の 「木内克・その世界 Ⅳ」 展の案内に、「その 「こけら落し」 には、木内克先生のクレパス15点、手びねりテラコッタ 5点、いずれも新作を展示して、私は私の 「夢」 を追うことにした。」 とあることから想像するしかない。この時には木内克はまだ元気で、画廊の誕生を大変喜んでいたそうだがついに足を運ぶことがないまま翌1977年3月8日に亡くなった。84歳だった。

 

 和田敏文は著書 『木内克の言葉』(農山漁村文化協会、1978)の 「まえがき」 に、「二○代の始めから木内家に出入りし、すでに三○年近く続いている。私はいつも、先生の息子のようなつもりで、先生と接触していた」 と書いている。1923年生れの和田は学徒出陣で戦地に赴き、無事帰国した後に木内宅の近くに住んだのが縁で木内克を知ることとなり、その作品に深く感動して親しく出入りするようになったと私に話してくれた(1978年3月)。彼は、ポール・グセルの 『ロダンの言葉』 のように面談中の木内克の言葉を筆録することに努め、その成果が 『木内克の言葉』 となったのだが、その 「まえがき」 に次のように書いている。

 

「先生との会話は、いつも楽しかった。
フランス生活が永かった故か、それとも天来の感性なのか、木内克にはいつも上等のユーモ ア、比喩、洒落が多かった。だから、冗談やシャレが理解出来ない人には、あるいは木内克の 「毒舌」 と誤って聞こえていたかもしれない。
彫刻、絵画、芸術、人生、社会、政治、教育、風俗について、じつは、たいへんとりとめもない話なのだが、いつもその中にハッとする、ドキッとする、ピカッと光り輝く、凄い内容がある。
「これは、ただその時、その時、聞き流してはイケナイ」
木内克を慕い、集まる私の仲間たちにも伝えてやらねばならないと、私は決心した。」

 

 このようにしてできた私と画廊との縁は木内の作品を介してその後長いこと続いたが2009 平成21年1月の閉廊をもって終ることとなった。廊主は和田敏文の没後子息が後を継いでいた。最後の作品展の案内には 「年初から残念なお知らせですが本展をもってゆーじん画廊は閉廊することになりました。1976年11月から33年、多くの皆様のご支援を賜り心から感謝申し上げます。本当に有難うございました。開廊展と同じく 「木内克その世界」 で閉廊です。 ご来廊お待ち申し上げます。」 とあった。 「木内克その世界」 展は36回目となっていた。

 

 清水崑が木内克を描いた大きな絵を壁に飾った室内には、裸婦のブロンズ像を中央に壁に沿ってテラコッタ(素焼き)の首や裸婦などが並んでいた。この画廊で木内克の得意とするテラコッタをはじめいくつもの作品に出会い、画廊主人和田敏文にたくさんのことを教えてもらったことを改めて思い出した。この画廊が彫刻家木内克(1892~1977)を継続して取上げてその作品世界を世に問い続けた功績は計り知れないだろう。

 

 戦後木内克が新樹会展を舞台に次々と作品を発表して注目されたころは、私が近代美術への関心を深めて美術館や展覧会を熱心に見て回った時期と重なっていた。もともと彫刻が好きだった私は、生命の満ち溢れる木内克の作品に強くひかれていった。

 

 開廊から33年、「木内克のゆーじん画廊」 との評価が定まっていたのに閉廊に至ったことはまことに残念としか言いようがなかった。閉廊にいたる事情はいろいろあるのだろうが、「近年の不景気で彫刻も絵画もさっぱり売れなくなってしまった。」 という廊主の話には日本の美術界が置かれていた当時の苦しい事情がまざまざと見えてくる思いがした。

 

 それからはや12年、私の好きな彫刻家木内克は多くの人たちからますます遠い存在となっていったように思われるのが残念でならない。

 

 

 

 

 上の写真は私の持っている木内の作品の一つテラコッタの小品(1969年作、像高22cm)だが、これについては忘れられない思い出がある。

 

 40歳前後の頃だったろうか、所用で松本(長野県)へ行った時街の中心部にある画廊で木内の作品展をやっているのに出会った。早速会場に入るとそこにはテラコッタの小さな裸婦像が20点くらい並んでいたろうか。テラコッタは粘土で作った像を素焼きにしたもので、木内は好んでこのテラコッタの裸婦の小品を制作した。まるで画家が画帳にスケッチするように。

 

 展示している作品は希望者には販売するという。その価格も手が出せないほどではなかった。私は敬愛する木内の作品を手に入れるといった欲も絡んで作品の一点一点を慎重に鑑賞した。その結果選んだのが写真の裸婦像である。

 

 ところが困ったのはその支払いで、旅先のこととて持ち合わせのあるはずがない。誰でも気軽にカードで支払いをすますといった世の中にはまだなっていなかった。そこで私はおそるおそる廊主に、帰ったら代金を送るのでこの作品を送ってほしいと頼んだ。

 

 私の顔を見た廊主の言葉は驚くべきものだった。「分かりました。作品は持って帰りなさい。代金は後で送ってくれればいい。」 と言って作品を布でくるみ始めたのだった。

 

 私はわずかな内金を置いて作品を受取り、帰りの車中ではしっかりと作品を膝の上に置いて喜びを噛み締めていた。

 

 もし私が廊主だったら同じようにしたろうか。おそらく私にはできなかっただろう。「数十万円の代金をめぐって初対面の人を信じることのできる人がいるのだ。」 ということを教えてもらった貴重な体験がこの裸婦像には重なっている。

 

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