かぎりなきみそらのはてをゆくくもの いかにかなしきこころなるらむ 秋艸道人 

 歌集 『鹿鳴集』 の 「山中高歌」 10首中の一首で、「山田温泉は長野県豊野駅の東四里の溪間にあり。山色浄潔にして嶺上の白雲も以て餐ふべきをおもはしむ。かつて憂患を懐きて此所に来り遊ぶこと五六日にして帰れり。爾来潭声のなほ耳にあるを覚ゆ」 と詞書にある。

 歌碑の歌をはじめ10首中 6首に 「くも」 が詠まれている。詞書の 「嶺上の白雲」 についての『自註鹿鳴集』 の中国の陶弘景に関した説明に、この歌を詠んだ頃の會津八一の心情を思うことができよう。
 
 「山中高歌」 は1920大正9年5月とある。このころの會津八一は早稲田中学校の教頭職にあったが、校内の教員の対立に心身ともに疲弊の状態にあって、ここ信州の山田温泉に滞在したのだった。谷あいの温泉の山の上を流れる白雲をみて、中国の詩人の詩に自分の思いを重ねたのだろう。 「山中高歌」 には次のような歌もある。

     くもひとつみねにたぐひてゆのむらの はるるひまなきわがこころかな

 歌碑の裏には上の詞書を彫り、下に 「昭和庚戌七月上浣/関谷小四郎建之」 とある。この温泉の旅館風景館の主人が1970昭和45年に建てたことが分かるが、詳しいいきさつは分からない。ただその頃のようすの一端は 『會津八一のいしぶみ』 (新潟日報事業社) に書かれている。

 ところで、この歌碑は上の写真を見ても分かるように旅館の入口に背を向けて建っている。写真の左はこの温泉地を貫く道路で、山田牧場の方に通じている。旅館に背を向け、道路に背を向けた歌碑の前には共同の温泉 「大湯」 と広場がある。広場には足湯もあり、すぐ傍には一茶の句碑が建っていた(写真)。この広場を意識して歌碑は建てられたのではないだろうか。一茶の句は、

          春風に猿もおや子の湯治哉 一茶

 碑蔭に、1822文政5年4月の作とあり、一茶は50歳で、この土地の門人久保田春耕を訪ねた折にこの温泉に泊ったとあった。1990 平成2年11月建立。

 會津八一と一茶には特別な縁がある。若いころに俳句に夢中だった八一だが、早稲田大学を卒業して就職したのが新潟県の私立中学校有恒学舎だった。その学校に近い新井の旧家でこれまで知られていなかった一茶の日記を発見したのは1908 明治41年のことだった。その日記には2000句を超す未知の一茶の句が記されていた。すでに知られていた句は2500前後だったので一挙に一茶の句が倍くらいに増えたことになる。また、八一が初めて奈良に行き歌を詠んだのもこの年のことだった。會津八一の歌碑と一茶の句碑が同じ広場に面して建っているのも縁あることと思った。

 歌碑の建つ山田温泉は、紅葉の素晴らしいので知られる松川渓谷のほとりに位置するが、マイカーならともかく交通が大変不便だ。JR長野駅から長野電鉄に乗り、小布施駅から村営バスが山田牧場まで通じていたが、このバスも2013年に終り、今は須坂からのバスが通じているようだ。

 

  他の歌碑 → クリック →