岡山市の真言宗の古刹金剛山法界院に會津八一の歌碑が 3基建っている。

 JR津山線法界院駅近くの丘の斜面に建つ同寺の立派な山門を潜ると、まず石段の登り口の左に梵鐘の形を刳り貫いた小さな歌碑がある。

 

わたつみのそこゆくうをのひれにさへ ひびけこのかねのりのみために 秋艸道人

 

 石段を登ると今度は右手にやや変わった形の歌碑が建つ。

 

おほてらのまろきはしらのつきかげを つちにふみつつものをこそおもへ 八一

 

 さらに門を潜ると境内の広場に出るが、正面の高いところに大きな本堂が建っている。広い石段の登り口右手に一叢の萩に隠れるように建っているのが三つ目の歌碑だ。

 

観音のしろきひたひにやうらくの かげうごかしてかぜわたるみゆ 秋艸道人

 

 最初の歌は香川県高松市の五剣山八栗寺の鐘銘のために詠んだもので、八一最晩年の歌として知られている。残りの2首はいうまでもなく 『鹿鳴集』 の 「南京新唱」 中の唐招提寺金堂と法輪寺の十一面観音像を詠んだものである。法界院の本尊が聖観音像(平安時代)であることから法輪寺の歌が選ばれたのだろうか。
 

 法界院の先々代の住職松坂帰庵は歌人・書家として知られており、會津八一とはかねてから交渉があり、八一が戦災に遭い新潟の西条に疎開した折には当座の生活物資や画仙紙を送ったりした。八栗寺の住職中井龍瑞が松坂帰庵に鐘銘の相談をした時に會津八一に紹介の労をとったのもこうした縁からであった。

 しかし、八一は法界院を訪ねたことはなく、歌も残されていないので歌碑にはこの3つの歌が選ばれたのであろう。これらの歌碑は帰庵の没後にうた未亡人によって1988 昭和63年4月に建てられた。
 

 私が寺を訪ねた時に先代住職の未亡人にお会いできたが、そのときのお話では建碑の経緯や原稿について今は全く分からないということであった。3基の中では一番小さい歌碑だが 「わたつみの」 の歌がこの寺には一番ふさわしいように私には思われる。歌碑の原稿となったのはおそらく八栗寺鐘銘の原稿であろう。
 

 なお、八栗寺の鐘銘については會津八一が 「八栗寺の鐘」(『新潟日報』 掲載) という文章を残しており、私も八栗寺の鐘銘と會津八一について  「わたつみの」 を書いた。また、歌碑が建てられる前に法界院を訪ねた長坂吉和が、松坂帰庵や未亡人について著書 『続・會津八一 人と書』(新潟日報事業社) に次のように書いている。
 

 「歌僧でもあった帰庵師は、やはり秋艸道人の 『鹿鳴集』 に触発されたのである。間髪を入れずに道人に手紙を送ったのが最初であった。二度目に良質な短冊を送ったところ、折り返して短歌を染筆したものと、『鹿鳴集』 の署名本が届いたのだそうである。」 「帰庵師はキイ子さんを失った道人を慰さめようと、くり返し招待状を出しているのである。」 「後日、道人が京都入りしたとき、帰庵師は伏見の増田家の招きで念願の対面ができたのである。これが、一期一会になろうとは両人とも夢にも思わなかったであろう」 と。 

 

 

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