石碑は石が壊れなければ1000年も2000年ももつという。

漢字の国中国では西安の碑林をはじめ各地に貴重な石碑が遺されている。

しかし場所が移されるのは防ぎようがない。

昔は道端に建っていた石仏が今はお寺に集められている例は多い。

 

私が関心を持つ會津八一の歌碑にも同じような例がある。

法隆寺の近くに住んでいた方が自宅に建てた歌碑は、その方が亡くなったのち

法隆寺に移されて、今は夢殿の後に建っている。

 

淡路島の洲本の方が建てた歌碑は、

私が訪ねた時は草木に埋もれるようになっていたが

建てた方が亡くなったためだった。

 

歌碑ではないが写真の石碑も似たような運命をたどった。

 

 

春のくさ暮れて あきのかぜにおどろき 秋のかぜやみて またはるのくさにもなれり

 

碑に彫ってあるのは 「平家物語」 の一節、會津八一の書いたもので

新潟市随一の繁華街古町通のお茶の老舗浅川園のすぐ近くに建っている。

 

1955 昭和30年10月の新潟大火でこの古町通が焼けた時に

會津八一は上の 「平家物語」 の一節を書いて浅川園主浅川晟一に贈った。

「春の草が再び萌え出るように店の復活を」 と願い、励ます気持を込めたのだろう。

 

「昭和五十六年五月六日、會津先生生誕一〇〇年を記念し、小宅の庭にこの碑を建立、

朝な夕なこの碑をながめ、先生の教えに感謝している今日此の頃である。」

と浅川晟一は書いている。

 

しかし、浅川が亡くなると碑は會津八一記念館に寄贈され、

さらに新潟市に寄贈され、2016年2月に現在地に再建された。

八一の書いた碑文を新潟市民に寄せた思いととらえて

古町通のゆかりの深い場所が選ばれたのだろう。

 

個人が建てた碑が辿った運命の幸せな例といえるだろう。

なお古町通の八一の生家跡には歌碑が建っている。