のむ湯にも焚火の煙匂ひたる 山家の冬のゆふけなりけり 牧水

 

 若山牧水(1885~1928) の歌集 『渓谷集』 (1918年) の中の一首である。歌集では、「飲む湯にも焚火のけむり匂ひたる 山家の冬の夕餉なりけり」 とある。1917 大正 6年11月に秩父に旅した時の歌 96首の中の一首。

 

 この歌碑は、埼玉県所沢市神米金(かめがね)の牧水の祖父健海の生地に建てられている。碑の裏面には 「健海と牧水」 と題して次のように刻まれていた。

 

 「医師若山健海は文化八年この地に生れ、嘉永二年長崎に種痘の伝わるや率先して蘭人モーニッケに学びその普及に尽した西洋医術伝来史上の輝かしい先覚者。その孫として宮崎県東郷村坪谷に生れた牧水は中学時代から短歌に志し、上京早稲田大学に入るにおよんで、祖父の生家をなつかしみ数回ここに訪れ、のち大成して万人に愛誦される幾多の名歌を遺した。 大悟法利雄識 昭和五十三年十一月吉日 若山牧水の歌碑を建てる会」

 

 歌碑の脇に立つ 「建設にあたり」 という説明板によると、歌碑を建てる動きは昭和35・6年にもあったが実現せずにいたところ、牧水没後50年にあたる昭和53年に歌碑を建てる会が結成されて実現したとある。

 

 だいぶ前のことになるが梅の花が咲き始めた頃にこの生地を訪ねた。歌碑は母屋の裏手に建てられていた。この辺りは江戸時代に新田開発で開かれた村で、若山家は吉見(東松山市)の方からこちらにやってきたと家の人が教えてくれた。神米金は幕領だったが、隣りの三富(上富・中富・下富)は川越藩主柳沢吉保により元禄時代に開発されたことが知られている。水の不便な土地で、井戸は随分と深く掘らなければ水が出なかった。若山家の門を入って左手にある井戸は昔からあるもので、「所沢駅から遥々と歩いてきた牧水もここでほっと喉を潤したそうです」 と話してくれた(写真下右)

 

 牧水は 「おもひでの記」 で 「私の祖父は武蔵川越在の農家の出で、幼時より江戸に出で両国の生薬屋に奉公していた。そして当時肥前の平戸にシイボルトという和蘭の医者が来ているという事を聞き、生薬屋から自宅に帰り、更に身延山詣でと称して自宅を出で、其侭肥前まで行って其処でシイボルトに仕えて多年の間医学を学んだ。(中略) 彼は日向に居着いてからも一度も郷里へ帰らなかったばかりでなく、音信すら為さなかった。が、西南の役の時、川越藩から出て来た官軍の一隊が恰度私の村へ来て泊る事になり、それで漸く郷里との消息が通ずる様になったのだそうである。(中略) 彼は初め細島美々津と云う海岸の港町に業を開こうとし、更にそれより山地に入り込んで私の故郷である坪谷村に来り、土地の旧家で酒造家をしていた奈須家の女を娶り、其処に居を定めた」 と書いている。

 

 何回かこの祖父の生地を訪ねた牧水だが歌は残していないのだろうか、歌碑の歌は秩父での歌である。おそらく当時の生地の様子を想像して選ばれたのであろう。「牧水の手紙があったそうですが、こんなに偉い人になるとは思わずお茶のホイロ(焙炉) に張ってしまったと聞いています」 とは家の人の話である。