はるきぬといまかもろびとゆきかへり ほとけのにはにはなさくらしも 渾齋

 

 歌集 『南京新唱』 および 歌集 『鹿鳴集』 冒頭の 「南京新唱」 のうちの1首。なお 『南京新唱』 は1924 大正13 年の刊行で會津八一の最初の歌集である。この歌集では 「はな」 は 「花」 となっている。歌碑では 「渾齋」 が朱印のように朱色になっているのが珍しい。

 

 この歌については、 『自註鹿鳴集』 の註に、 「そもそも天平時代におけるこの寺の諸堂内外の多彩なる盛況を知らんとするには、須(すべから)く先ず 『続日本紀』 と 『万葉集』 とを読み、併せて 『興福寺流記』 または 『諸寺縁起集』 中のこの寺の条を読むべし。まことに咲く花の匂ふが如きものありしを知るべし」 とあることから、八一のこの歌に寄せる思いを推し量ることが出来よう。

 

 奈良時代に藤原氏によって建てられた金堂が3つもある興福寺は東大寺とともに奈良を代表する大寺院だが、たびかさなる火災や戦禍によって当初の建物は失われた。現存する多くの建物は鎌倉時代以降に再建されたものだが、2018 平成30年10月に再建された中金堂に奈良時代の華やかな姿を想像することができる。

 

 この歌碑は、五重塔近くの興福寺本坊の前に建っている。會津八一没後50年にあたり、興福寺と秋艸会を中心とした800名を越える人たちの寄金によって建てられて、2007 平成19年3月に除幕された。石は厚みのある大きな生駒石で、文字面も縦100、横60cm と大きい。碑石の中には寄付者の名簿が納められた。除幕式の様子をはじめ、歌碑建立の経緯や関係した方々の思いの数々は秋艸会の会報 『秋艸』 No.24に掲載されている。

 

 この歌碑は、五重塔周辺の賑わいに比べて人通りが少なくて静かな興福寺本坊入口の前の道を挟んだ緑地にあるが、道と緑地を隔てる 「立入禁止」 の柵によって碑のそばには行くことが出来ない。ちょうど本坊から出てきた若い僧に歌碑の裏を見たりしたいので柵の中に入れてもらえないかと頼んでみたが 「一般の人は入れないことになっています」 との返事で、頑としてこちらの希望を聞き入れてはくれなかった。

 

 遥々とこの碑を訪ねてきた人の中には、私のようにすぐそばで碑をじっくりと眺めたり碑の裏側を見たい人も居るだろうが、どうもそうした希望はかなえられないようだ。立入禁止の柵に隔てられて近付くことの出来ない歌碑というのは他に例があるだろうか。果してこれでよいのだろうか、という思いを深くしたのだった。

(會津八一歌碑巡礼:奈良13)