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あきしののみてらをいでてかへりみる いこまがたけにひはおちむとす 八一

 
 歌集 『鹿鳴集』 の 「南京新唱」 にある秋篠寺を詠んだ歌3首のうちの 1首。

 

 秋篠寺は奈良時代末期に創建され七堂伽藍を備えた大きな寺院であったが、平安時代末に火災で講堂を残して焼失した。その後再建されたが再び戦火により焼けて衰微し、さらに明治初年の廃仏棄釈によって打撃をうけてわずかに講堂を残すのみになったという。

 

 會津八一が初めて訪ねたころは有名な伎芸天をはじめ堂内の諸像は博物館に寄託されて大変さびしい状態だった。八一は、「たかむらにさしいるかげもうらさびしほとけいまさぬあきしののさと」 と詠んでいる。

 

 秋篠寺の門を入って拝観入口に至るまでの林は緑の苔が林床を埋め尽しており、梅雨どきにはすばらしい眺めとなるかと思われる。歌碑は南門から本堂(講堂)に向かう道の左側にひっそりと建っており、碑陰には「昭和庚戌」 とのみ彫られている。これは1970 昭和45年にあたるが、この年に匿名希望のある婦人が海龍王寺・般若寺とあわせて3基の會津八一の歌碑を建てたという。この婦人はすでに亡くなっているが、建碑の事情を謎のままに終らしてよいのかと思う。

 

 會津八一のたった一人の弟子といわれる歌人吉野秀雄は 『鹿鳴集歌解』 で、歌碑の歌を 「がっちりした古調の作である」 と評している。

 

 ところで、この吉野秀雄の歌碑も秋篠寺にある。拝観入口を入って本坊のほうに向かう林の中に建っているが気づく人はまずいないだろう。(写真下)

 

あまりじし(贅肉)なきししおき(肉置)のたをやか(婀娜)にみ面(も)もみ腰もただうつつなし

 

 伎芸天を詠んだ歌だが、裏に昭和44年6月15日とあるので八一の歌碑の前年に建てられたことになる。

 

 會津八一は、吉野秀雄について、「私の一番に嬉しいことは、吉野さんの歌の何処を見ても、単語でも、調子でも、私の歌に何一つ似たところが無いことである」 と書いている(「友人吉野秀雄」)

 

 八一の歌碑といい、この吉野の歌碑といい標識も説明もいっさいないので不親切ともいえようが、考えてみるとこうした歌碑はもともとはその歌人にたいする関係者の思いが形になったものであり、世の人々に知ってもらうのが第一の目的ではないのだから、「知る人ぞ知る」 といったこの秋篠寺のようなありかたが本来のものなのかなとも思ったりする。

 

 秋篠寺の周辺は住宅が多くなっておそらく八一や吉野が歌を詠んだころとは景観は大きく変化していることだろう。しかし西のほうに少し歩くとまだ畑があり、池のむこうには生駒山がいまもなだらかな姿を見せている。八一は、「高き山にはあらねど、姿よろし」(自註) といっているが、頂上に何本もの鉄柱が立っているのが痛々しい。

 

(會津八一歌碑巡礼 奈良12)



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追 記 * 秋篠寺・海龍王寺・般若寺の歌碑は匿名の同一人物によって建てられたが、このまま建立者不明で歴史に埋もれてしまうのは残念だと書いてきた。ところがこの3基を建てた大石石材の話により、歌碑は東京の三共製薬社長夫人鈴木ミツ(故人)によるものだという事が判明した。(海龍王寺歌碑の解説、喜嶋奈津代、「秋艸会報」 No.51 2021年4月による) 2022年3月