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東  寺



たちいればくらきみだうに軍荼利(ぐんだり)の しろききばよりものヽみえくる  秋艸道人

(夕方の薄暗い講堂に立ち入れば、軍荼利の白い牙まづ目につき、
それからしだいに外のものがほのかに見えてくる。)
 
 歌集 『鹿鳴集』 の 「観仏三昧」 の中の1首。詞書に 「この日醍醐を経て夕暮に京都に出で教王護国寺に詣づ。平安の東寺にして空海に賜うところなり。講堂の諸尊神怪を極む。」 とある。講堂の仏像を詠った歌はもう1首あるがそれは 「ひかりなきみだうのふかきしづもりに をたけびたてる五大みやうわう」 である。

 1939昭和14年10月、学生数名と東京を出た會津八一が東大寺に始まり聖林寺・浄瑠璃寺・唐招提寺・平等院などを訪ねた後に東寺に着いたのは24日の夕刻だった。昼間でも薄暗い堂内は秋の夕刻で一層暗さを増していたろう。『自註鹿鳴集』 で 「密閉したる真言宗寺院の堂内に立ち入る時は、暫くは視力を失いたる如く、ようやくにして物の見え来るを常とす。その時軍荼利明王の牙の白きより堂内の諸物は見え初め来れりと詠めるなり。」 と書いている。

 この歌碑は會津八一の歌碑のもっとも新しいもので2018平成30年3月に建立された。八一の歌碑の50基目にあたり京都に建つのは初めてである。多くの人たちの寄金によって建てられたもので高さ1メートル弱の御影石、彫ったのはこれまでいくつもの八一歌碑を手がけている左野勝司さん。歌碑の大きさや、歌の原稿との関係、建てる場所などを巡って一時は計画が難航したが関係者の努力で完成した。原稿となった八一の書と同じ寸法で彫ることのできた歌碑で、東寺境内の洛南会館の前庭に建てられた。講堂の近く、あるいは講堂の見える場所に建てられたならばもっとよかったと思うのだが。(歌の大意は吉野秀雄 『鹿鳴集歌解』 による)


 
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 平城京から長岡京を経て平安京へと都を移した桓武天皇は羅城門の東西に大寺を置いたが、やがて空海に賜わって真言密教の道場(教王護国寺)となり五重塔や講堂などの諸堂・諸仏が造られていった。しかしその後は戦乱や災害によって何度も焼失や破損が繰り返されたという。

 現在の五重塔は江戸時代の1644正保元年に完成し、高さ55メートル、日本の古塔では一番高く国宝に指定されている。金堂は豊臣秀頼の発願で再興されたもので1603慶長8年に竣工し国宝に指定されている
(写真中)。東寺一山の本堂で本尊は薬師如来、日光・月光の両脇侍菩薩がひかえる。重要文化財指定。

 講堂は1491延徳3年に再興されたものだが旧基壇の上に建てられており、平安時代の様式
(和様)の建物で重要文化財に指定されている(写真下)。堂内には空海(弘法大師)の時代の多数の仏像が安置されており、密教の教えを表現する立体曼荼羅となっている。中央に大日如来を中心とする5如来、右に金剛波羅密多菩薩を中心とする5菩薩、左に不動明王を中心とする5明王、それに四天王と梵天・帝釈天が控えて暗い堂内に多数の仏像が立ち並ぶようすはまさに仏の世界だ。八一の歌にある軍荼利明王は不動明王の左手前に立っている。堂内の仏像はすべてが国宝か重要文化財に指定されており、東寺は世界文化遺産に登録されている。


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