1912(明治45)年 4月13日午前 9時30分に石川啄木は東京の一隅で貧窮の極みのなか没した。享年満26歳の若さだった。今年は啄木没後107年にあたる。
 
 
 

 ところで、生前の啄木と交渉のあった人たちの回想文を集めた 『回想の石川啄木』 (岩城之徳編、八木書店、1967年)の序文が少し変っている。啄木を語るには欠かすことの出来ない金田一京助と土岐善麿が監修者として名を連ねているが、その一人土岐が 「「記憶」 と 「記録」 について-序文に代へて」 と題した序文で金田一の誤りを正しているからだ。

 この本は冒頭に金田一の 「啄木の人と生涯を語る」 という86ページに及ぶ文章を載せているが、この中で金田一は啄木を見舞った折にお金のないのを見かねてなんと か10円を工面して渡したことと、同じく見舞った若山牧水が土岐に 『一握の砂』 以降の歌稿の出版と原稿料の入手を依頼した結果啄木一家がお金を手にすることが出来たことを次のように書いている。
 
以前啄木が、「このごろいい薬が出たが、それを飲めばきっとぼく、いまからでもなおるけれど、その金がないばかりに死ななきゃならないよ」 と、そう言うから、牧水が、「いや、第二歌集を出版したまえ、そうしたら買えるよ」、「あ、そうか」 というわけで、枕もとにあった 「一握の砂以後」 という原稿を牧水が持っていって、土岐善麿さんに頼み、土岐さんはそれを本屋に持っていって、やっぱりお金になった、その二十円を牧水は石川君に届けた、それで、石川君はその薬 をおかげで買って飲むことができたという、…
 
  しかし、金田一はこうした場面に立会ったのではなくて、牧水が一年後に 『読売新聞』 に書いた文章によると断っている。
 

 
  これにたいして土岐善麿はさきの序文で、これは金田一の 「記憶」 で、事実は歌集 『悲しき玩具』 の巻末に自分が書いた経緯が正しい 「記録」 と言うべきで、『回想の石川啄木』 に収録された諸氏の回想も吟味してはじめて 「記憶」 が 「記録」 となるだろうと書いている。
 
(啄木が死ぬ)四五日前のことである。金がもう無い、歌集を出すやうにしてくれ、とのことであった。で、すぐさま東雲堂へ行って、やっと話がまとまった。うけとった金を懐にして電車に乗ってゐた時の心もちは、今だに忘れられない。一生忘れられないだらうと思ふ。
 石川は非常によろこんだ。氷嚢の下から、どんよりした目を光らせて、いくたびもうなづいた。しばらくして、「それで、原稿はすぐ渡さなくてもいいのだらうな、訂さなくちゃならないところもある。癒ったらおれが整理する」 と言った。その声は、かすれて聞きとりにくかった。
 「それでもいいが、東雲堂へはすぐ渡すといっておいた」 と言うと、「さうか」 と、しばらく目を閉じて、無言でゐた。 やがて、枕もとにゐた夫人の節子さんに、「おい、そこのノートをとってくれ ―その陰気な」 とすこし上を向いた。ひどく痩せたなァと、その時僕はおもっ た。
 「どのくらゐある?」 と石川は節子さんに訊いた。一頁に四首つつで五十頁あるから四五の二百首ばかりだと答へると、「どれ」 と、石川は、その、灰色のラシャ紙の表紙をつけた中版のノートをうけとって、ところどころ披いたが、「さうか。では、万事よろしくたのむ」 と、言って、それを僕に渡した。
それから石川は、全快したら、これこれのことをすると、苦しさうに、しかし笑ひながら語った。
かへりがけに、石川は、襖を閉めかけた僕を 「おい」 と呼びとめた。立ったまま 「何だい」 と訊くと、「おい、これからも、たのむぞ」 と言った。
 これが僕の石川に物をいはれた最後であった。
 
 ここに書かれているように、土岐は歌稿を持って出版社に行ったのではなくて、牧水から聞いてすぐに出版社と掛け合ってとりあえずお金を届け、後に原稿を渡して歌集 『悲しき玩具』 が出来たというわけである。同歌集の奥付を見ると 「明治四十五年六月二十日発行」 とあり、啄木の死後わずか 2ヶ月後にあたるので土岐の 「記憶」 はおそらく事実と考えられよう。
 

 
 さきの金田一京助の文章は、実は神戸の中学校で1960(昭和35)年10月に行なっ た講演で、後に 『国語教育』(三省堂、1961年)に掲載されたものである。しかし、 金田一がこの歌稿をめぐる現場にいたわけではなくて若山牧水の書いたものによっていることは自身も認めるところだが、「啄木の死から満一年後に 「啄木臨終期(記の誤 りか?)」 を読売新聞に書いていますが」 とあるのは間違いで、これはおそらく1923 (大正12)年に 『読売新聞』(4月13日)に書いた 「石川啄木の臨終」 という文章のことと思われる。

 石川啄木に特に関心を持たない人にはどうでもよいことのようだが、土岐善麿の言うようにやはり誤った 「記憶」 は正されて正確な 「記録」 にする必要はあろう。啄木と同郷の先輩であり、啄木を物心両面で支え続けた金田一京助は、啄木について実に多くを語っている。もう少し上のことを詮索してみよう。

 金田一の啄木に関する文章は、戦前に梓書房から 『石川啄木』(1934年)を出版、 敗戦直後には角川書店から 『定本 石川啄木』 『続 石川啄木』(1946・47年)が出され、 さらに1967年には梓書房版の増補復刻版が 『終篇 石川啄木』 として巌南堂から出版 された。文庫本としては改造文庫・角川文庫があり、最近では講談社文芸文庫にも収 められている。どの版も主要な文章は共通するがその他の文章にはいろいろと出入りがある。

 啄木の臨終に関するものは、『続 石川啄木』 に 「啄木の終焉」 が収められている。 文末に 「廿一、八、四」 とある。この本は裏が透けて見えるような質の悪い薄い紙(仙花紙)で実に読みづらく、まさに敗戦直後の時代の産物といえるが、この一文はさきの 『悲しき玩具』 の出版をめぐる経緯には触れていない。『終篇 石川啄木』 には 「啄木の臨終」 という一文が収められている。文末に 「昭和四十一年四月十三日 啄木の命 日に」 とあり、ここにはさきの中学校での講演と同じことが書かれている。金田一が 『悲しき玩具』 の土岐の 「あとがき」 を読まないはずがないのに、なぜか彼の記憶は先のように固定されてしまったのだろう。
 

 
 では、一方の当事者若山牧水はどのように書き残しているだろうか。牧水は啄木の死に立会った唯一の友人として臨終前後の様子や啄木の歌について多くを書いている。

 「僕が石川君を初めて見たのは、一昨年の十一月頃、三四ヶ月間信州路の方を遊んで来て間もなくであった」 と牧水が書いているが、これは1910
(明治43)年のことである。そして 「僕が石川君の健全な姿及び声を見且つ聞いたのはこの短い間が最初でそして最後であった」 とも書いている。この時は北原白秋らと 4人で歩いている時 に浅草の田原町で啄木と出会ったのだった。

 しかし、牧水がこの年の 3月に始めた詩歌中心の雑誌 『創作』 の3号以降に啄木は歌を発表しているので知らない仲ではなかった。8号
(10月)には 「九月の夜の不平」 34首を、9号には短歌をめぐる 「一利己主義者と友人との対話」 を寄せている。啄木に大きな衝撃を与えた大逆事件がおきた年でもある。

 啄木と牧水の交渉は晩年のわずか 2年ばかりだが、大きな意味を持った 2年間であ った。「僕が石川君を…」 で始まる 「石川啄木君と僕」
(『秀才文壇』 1912年9月)は、 臨終の様子だけではなくこの2年間の啄木の様子も伝えてくれる。

 「時代閉塞の現状」 を書き
(発表できず)、歌集 『一握の砂』 を出版して注目された啄木は、翌1911年にかけて日本の現実と深く切り結び、その打破のイメージを明らかにしつつあった。土岐善麿(哀果)と発行しようとした新雑誌 『樹木と果実』 はう まくいかなかったが、長詩 「はてしなき議論の後」 を 『創作』 に発表したのは1911年の7月である。しかし、体調は日々に悪化していった。
 

当時の君は、それでも、非常に烈しい気焔を吐いていた。文学談などは殆ど出ずに、常に社会政策か何かが主題で、資本制度階級制度なぞに対して殆ど極端の持論を執っていた。そういう事を話し始めると痩せた顔に真赤に血を漲らして、此方で幾ら心配しても時間の経つのなどには全然注意しなかった。当時世間で喧しかった大逆事件などに対しても深い注意を払っていた。机の上には国禁の書が幾つも置いてあった。痩せていよいよ大きくなった瞳はあやしく光を放ち、青い火鉢に取り着いた彼の息づかいはいかにも苦しげであった。

 

 新しい歌集の原稿を巡る一件は啄木の死ぬ前日のことだった。啄木一家の窮状を聞 き枕元にあった歌稿の出版を頼まれた牧水は土岐善麿のもとに走った。
 
未明に土岐哀果君を訪うて右の事情だから、是からすぐ東雲堂に行って書物のこ とを君から談合して見てくれないかと頼み、併せて他の善後策についても相談した。土岐君はすぐ東雲堂へ行き、金を持って小石川に行った相だ。

 この一文は1912年 9月の発表だから啄木の死からわずか 5ヶ月、内容は相当に信用してよいだろうが、これだけでは土岐が歌稿を持っていったか否かどちらとも決められないだろう。

 ところで、1923
(大正12)年 4月の 「石川啄木の臨終」(『読売新聞』)では牧水は、「彼から頼まれた歌集原稿を売るために土岐君を芝に訪ねた。土岐君はすぐ日本橋の東雲堂に行き、それを二十円に代えて石川君の許に届けたのであった」 と書いている。 この表現だと歌集の原稿を持って出版社と交渉したともとれるので、『読売新聞』 の一文によると明記している金田一の話もあながち間違いとは言えそうもない。とすれば、当事者である土岐善麿の話を信用するしかないであろう。

 4月13日の早朝、啄木の家からの使いがあり金田一と牧水が駆けつけた時には啄木はまだ話が出来る状態だった。ひとまず安心した金田一が仕事に出かけた直後に容態が急変して啄木は死んだ。枕元には妻と父と牧水の 3名しかいなかった。諸方への連絡や届などには牧水が一人奔走して15日に葬儀が営まれたが、この間の事情は牧水の書いたものに詳しい。
 

 
 石川啄木が亡くなった翌々年に若山牧水が 『創作』 に書いた 「石川啄木君の歌」(1914年 1月)を読んで私は感動した。彼は啄木の歌を実に150首以上も紹介し、その一部 を評釈しながら啄木の歌の特色、その人となり、そして道半ばで倒れた啄木の悔しさを深い友情をもって綴ったのである。決して幸せとはいえない啄木の生涯であったが、晩年にも素晴らしい友人に巡りあったのだと深く感じたのであった。
 
短歌ということを強ちに頭に置かず、広く一般の文芸界に於て、北村透谷、国木田独歩、石川啄木などという人は私の心にいつも同じ光を放って聯想せられる。性格、思想等に於ては勿論それぞれ違っていたようである。唯だ、自己の生に対する、人生というものに対する態度が殆どみな同じでは無かったかと想像せられるのである。形こそ違え、その態度はみな同じ光となってその作品の裡に輝いていると思う。飽くまでも敬虔な、純粋な、緊張した、底の底まできわめねば止まなかったその態度は、よし多少の深浅はあろうとも、彼等の作品の底にしみじみと不尽に流れている。我等多くが、また他念なく自己本然の姿に帰っているとき、心に浮ぶはまことに彼等の作品である。
ああして烈しい不満足のうちに死んで行ったことがいかにもいたましく残り惜 しく、またそれが私どもに対する一の暗示か皮肉のようにも思われて、自ら暗然 たらざるを得なかった。(「石川啄木君の歌」)
 
死んだ人のことを思うのは、いま生きている自身に対し、常に深い冷笑であり、暗示である。 けれども僕は矢張りそう思っている、死んではつまらないと。そして、石川君を常に気の毒に思っている。(「石川啄木君と僕」)
 
私は永く彼の顔を見ていられなかった。 よく安らかに眠れる如くという風のことをいうが、彼の死顔はそんなでなかった。 (「石川啄木の臨終」)
 
 石川啄木の死に際して若山牧水が詠んだ歌。

   午前九時やゝ晴れそむる初夏の 曇れる朝に眼を瞑ぢにけり
   はつ夏の曇りの底に桜咲き居り 衰へはてゝ君死にゝけり
   病みそめて今年も春はさくら咲き 眺めつゝ君の死にゆきにけり
   初夏に死にゆきしひとのおほかたの さびしき群に君も入りけり
   君が子は庭のかたへの八重桜 散りしを拾ひうつゝともなし
 
   (牧水の三つの文章は講談社文芸文庫 『若山牧水随筆集』 に収められている。)