1912(明治45)年 4月13日午前 9時30分に石川啄木は東京の一隅で貧窮の極みのなか没した。享年満26歳の若さだった。今年は啄木没後107年にあたる。
ところで、生前の啄木と交渉のあった人たちの回想文を集めた 『回想の石川啄木』 (岩城之徳編、八木書店、1967年)の序文が少し変っている。啄木を語るには欠かすことの出来ない金田一京助と土岐善麿が監修者として名を連ねているが、その一人土岐が 「「記憶」 と 「記録」 について-序文に代へて」 と題した序文で金田一の誤りを正しているからだ。 この本は冒頭に金田一の 「啄木の人と生涯を語る」 という86ページに及ぶ文章を載せているが、この中で金田一は啄木を見舞った折にお金のないのを見かねてなんと か10円を工面して渡したことと、同じく見舞った若山牧水が土岐に 『一握の砂』 以降の歌稿の出版と原稿料の入手を依頼した結果啄木一家がお金を手にすることが出来たことを次のように書いている。
しかし、金田一はこうした場面に立会ったのではなくて、牧水が一年後に 『読売新聞』 に書いた文章によると断っている。
これにたいして土岐善麿はさきの序文で、これは金田一の 「記憶」 で、事実は歌集 『悲しき玩具』 の巻末に自分が書いた経緯が正しい 「記録」 と言うべきで、『回想の石川啄木』 に収録された諸氏の回想も吟味してはじめて 「記憶」 が 「記録」 となるだろうと書いている。
ここに書かれているように、土岐は歌稿を持って出版社に行ったのではなくて、牧水から聞いてすぐに出版社と掛け合ってとりあえずお金を届け、後に原稿を渡して歌集 『悲しき玩具』 が出来たというわけである。同歌集の奥付を見ると 「明治四十五年六月二十日発行」 とあり、啄木の死後わずか 2ヶ月後にあたるので土岐の 「記憶」 はおそらく事実と考えられよう。 さきの金田一京助の文章は、実は神戸の中学校で1960(昭和35)年10月に行なっ た講演で、後に 『国語教育』(三省堂、1961年)に掲載されたものである。しかし、 金田一がこの歌稿をめぐる現場にいたわけではなくて若山牧水の書いたものによっていることは自身も認めるところだが、「啄木の死から満一年後に 「啄木臨終期(記の誤 りか?)」 を読売新聞に書いていますが」 とあるのは間違いで、これはおそらく1923 (大正12)年に 『読売新聞』(4月13日)に書いた 「石川啄木の臨終」 という文章のことと思われる。
石川啄木に特に関心を持たない人にはどうでもよいことのようだが、土岐善麿の言うようにやはり誤った 「記憶」 は正されて正確な 「記録」 にする必要はあろう。啄木と同郷の先輩であり、啄木を物心両面で支え続けた金田一京助は、啄木について実に多くを語っている。もう少し上のことを詮索してみよう。 金田一の啄木に関する文章は、戦前に梓書房から 『石川啄木』(1934年)を出版、 敗戦直後には角川書店から 『定本 石川啄木』 『続 石川啄木』(1946・47年)が出され、 さらに1967年には梓書房版の増補復刻版が 『終篇 石川啄木』 として巌南堂から出版 された。文庫本としては改造文庫・角川文庫があり、最近では講談社文芸文庫にも収 められている。どの版も主要な文章は共通するがその他の文章にはいろいろと出入りがある。 啄木の臨終に関するものは、『続 石川啄木』 に 「啄木の終焉」 が収められている。 文末に 「廿一、八、四」 とある。この本は裏が透けて見えるような質の悪い薄い紙(仙花紙)で実に読みづらく、まさに敗戦直後の時代の産物といえるが、この一文はさきの 『悲しき玩具』 の出版をめぐる経緯には触れていない。『終篇 石川啄木』 には 「啄木の臨終」 という一文が収められている。文末に 「昭和四十一年四月十三日 啄木の命 日に」 とあり、ここにはさきの中学校での講演と同じことが書かれている。金田一が 『悲しき玩具』 の土岐の 「あとがき」 を読まないはずがないのに、なぜか彼の記憶は先のように固定されてしまったのだろう。 では、一方の当事者若山牧水はどのように書き残しているだろうか。牧水は啄木の死に立会った唯一の友人として臨終前後の様子や啄木の歌について多くを書いている。
「僕が石川君を初めて見たのは、一昨年の十一月頃、三四ヶ月間信州路の方を遊んで来て間もなくであった」 と牧水が書いているが、これは1910(明治43)年のことである。そして 「僕が石川君の健全な姿及び声を見且つ聞いたのはこの短い間が最初でそして最後であった」 とも書いている。この時は北原白秋らと 4人で歩いている時 に浅草の田原町で啄木と出会ったのだった。 しかし、牧水がこの年の 3月に始めた詩歌中心の雑誌 『創作』 の3号以降に啄木は歌を発表しているので知らない仲ではなかった。8号(10月)には 「九月の夜の不平」 34首を、9号には短歌をめぐる 「一利己主義者と友人との対話」 を寄せている。啄木に大きな衝撃を与えた大逆事件がおきた年でもある。 啄木と牧水の交渉は晩年のわずか 2年ばかりだが、大きな意味を持った 2年間であ った。「僕が石川君を…」 で始まる 「石川啄木君と僕」(『秀才文壇』 1912年9月)は、 臨終の様子だけではなくこの2年間の啄木の様子も伝えてくれる。 「時代閉塞の現状」 を書き(発表できず)、歌集 『一握の砂』 を出版して注目された啄木は、翌1911年にかけて日本の現実と深く切り結び、その打破のイメージを明らかにしつつあった。土岐善麿(哀果)と発行しようとした新雑誌 『樹木と果実』 はう まくいかなかったが、長詩 「はてしなき議論の後」 を 『創作』 に発表したのは1911年の7月である。しかし、体調は日々に悪化していった。
この一文は1912年 9月の発表だから啄木の死からわずか 5ヶ月、内容は相当に信用してよいだろうが、これだけでは土岐が歌稿を持っていったか否かどちらとも決められないだろう。 ところで、1923(大正12)年 4月の 「石川啄木の臨終」(『読売新聞』)では牧水は、「彼から頼まれた歌集原稿を売るために土岐君を芝に訪ねた。土岐君はすぐ日本橋の東雲堂に行き、それを二十円に代えて石川君の許に届けたのであった」 と書いている。 この表現だと歌集の原稿を持って出版社と交渉したともとれるので、『読売新聞』 の一文によると明記している金田一の話もあながち間違いとは言えそうもない。とすれば、当事者である土岐善麿の話を信用するしかないであろう。 4月13日の早朝、啄木の家からの使いがあり金田一と牧水が駆けつけた時には啄木はまだ話が出来る状態だった。ひとまず安心した金田一が仕事に出かけた直後に容態が急変して啄木は死んだ。枕元には妻と父と牧水の 3名しかいなかった。諸方への連絡や届などには牧水が一人奔走して15日に葬儀が営まれたが、この間の事情は牧水の書いたものに詳しい。 石川啄木が亡くなった翌々年に若山牧水が 『創作』 に書いた 「石川啄木君の歌」(1914年 1月)を読んで私は感動した。彼は啄木の歌を実に150首以上も紹介し、その一部 を評釈しながら啄木の歌の特色、その人となり、そして道半ばで倒れた啄木の悔しさを深い友情をもって綴ったのである。決して幸せとはいえない啄木の生涯であったが、晩年にも素晴らしい友人に巡りあったのだと深く感じたのであった。
石川啄木の死に際して若山牧水が詠んだ歌。
午前九時やゝ晴れそむる初夏の 曇れる朝に眼を瞑ぢにけり はつ夏の曇りの底に桜咲き居り 衰へはてゝ君死にゝけり 病みそめて今年も春はさくら咲き 眺めつゝ君の死にゆきにけり 初夏に死にゆきしひとのおほかたの さびしき群に君も入りけり 君が子は庭のかたへの八重桜 散りしを拾ひうつゝともなし (牧水の三つの文章は講談社文芸文庫 『若山牧水随筆集』 に収められている。)
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