「独往の人 會津八一展」 をみた。東京新宿の中村屋サロン美術館はあまり広くない展示スペースだが、今回の展示は會津八一の全体像がよく整理されて簡潔に示されているのに感心した。小品ながら八一の油彩静物画が数点みられたのはよかった。

 中村屋は、信州安曇野穂高出身の相馬愛蔵が夫人黒光とともに開いたパン屋で、新宿で成功してからは同郷の彫刻家荻原碌山をはじめ若い芸術家たちを支援したことがよく知られている。會津八一との縁は、夫妻の長男安雄の早稲田中学校での恩師にあたることからで、親交を深めて店の看板や菓子の名前を書いたりしている。

 ところで 「独往」 とは、「独り往く」 「吾が道を往く」 といった意味だろうが、會津八一の最初の歌集 『南京新唱』 の 「自序」 に次のような一節がある。

 「吾が世に於けるや、実に乾坤 (ケンコン、天地) に孤笻 (キョウ、竹の杖) なり、独往して独唱し、々 (コウコウ、たかぶる) として顧返  (コヘン、かえりみる) することなし。」

 歌集 『南京新唱』 は1924 大正13年12月の発行だが、「独往」 はまさに會津八一の生き方を端的に示す言葉と言えよう。

 書の世界では、1949 昭和24年秋の日展に審査員と作品の招待が内定していたが、反対があって作品の招待だけとなったことからそれを辞退して、同じ時期に中村屋で初めての個展を開いたのだった。

 歌の世界では、『近代秀歌』 (永田和宏、岩波新書、2013年1月) に 「はつなつの かぜとなりぬと みほとけは をゆびのうれに ほのしらすらし」 と、『鹿鳴集』 にある歌を紹介した後に次のようにある。

 「正直に言うと、私は会津八一の歌が苦手である。どうも生理的に受けつけないのだ。しかし、有名度という点では間違いなく近代の歌人として落とすことのできない人物である。」 「本書で会津八一を取りあげるべきかどうか、実はだいぶ迷ったのである。私が苦手ということだけでなく、八一にはこれといった誰もが認めるような代表歌がない。なんとなく知ってはいても、この一首と言ったときの決め手に乏しい。……正直、八一の歌の選択には苦労した。」(p.149~151)

 會津八一の生涯は、多くの人と交わり、支えられながらも、その学芸はまさに 「独往」 の世界だったとあらためて思うのである。