法 融 寺

 
 11月の秋艸道人忌には東京でも偲ぶ会が墓のある法融寺(練馬区)で行われ、多くの人が集まっている。同寺には歌碑のほかに會津八一と所縁のある人の墓などもあり、八一に関心のある人には一度は訪ねたいところだろう。
 
むさしののくさにとばしるむらさめの いやしくしくにくるるあきかな


  歌集 『鹿鳴集』 の 「村荘雑事」 17首の最後の1首で、よく知られた落合の秋艸堂に移ったばかりの大正末年の作。「とばしる」 は 「飛び散ること」、「いや」 は 「いよいよ」、「しくしくに」 は 「頻りに」 と八一の自註にある。
 
 碑側に 「願主 開基釈信願 昭和三十五年十一月二十一日渾斎同人建之 大和石工喜多桝太郎」 とあるように、會津八一没後 4年の秋に同寺住職をはじめ縁の深かった人たちの協力によって心を込めて建てられた。奈良の生駒石を使った碑の量感は相当なものだ。

 この歌碑は写真にはうまく撮れないし肉眼でも文字がよく見えない。なんとかうまく撮れないかと思い、光線のよい午前に出かけて写したのがこの写真であるが、やはり文字が全部は読めない。ススキの左に刻まれている 「秋艸道人」 はまったく読めない。刻まれている文字をよく見ると、はっきり読める 「むさ、くさ、とは、や、く、くるる、あき」 は刻みが深くて、読めない文字は刻みが大変浅いことが分かる。それに石の表面をきれいに磨かずにざらざらの状態にしてあるのも読みにくさを増している。

 これはおそらく筆勢の強弱、墨の濃淡を忠実に表現しているのではないかと思い碑の原稿と比べてみたがまさにその通りだった。原稿は 『會津八一の歌碑(増訂版)(早稲田大学文学碑と拓本の会編) に掲載されている。碑面をざらざらにしたのは、歌に即して 「武蔵野の空行く雲の感じを出したもの」 と同書にある。歌碑建立に関わった人たちの會津八一にたいする熱い思いを感じとることが出来よう。しかしもし會津八一が健在だとしたらこの原稿は使用しなかったろうし、歌碑としてはあまり良い出来とは言えないと私は思う。

 歌碑の右には上司海雲の墓が(東大寺管長、写真下左)、後には 「更生學人」 と刻まれた安藤更生の墓がある(早稲田大学教授、写真下右)。どちらも會津八一とは縁の深い方だが、法融寺住職とこうした方々とのことについてはすでにエッセイ 「むさしのの
」 に書いたのでご覧いただきたい。(続く)
(會津八一歌碑巡礼 東京 1)
 

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