法 華 寺
 

 
ふぢはらのおほききさきをうつしみに あひみるごとくあかきくちびる 秋艸道人
 
     


 
 歌集 『鹿鳴集』 の 「南京新唱」 中の一首。詞書に 「法華寺本尊十一面観音」 とある。  法華寺は、光明皇后が父藤原不比等の遺宅を寺院にしたもので、聖武天皇が東大寺を総国分寺とした時に皇后は総国分尼寺とし 「法華滅罪之寺」 と名付けた。今は盛時の面影はないが境内にある約千坪もの華楽園には樹木や草花が四季おりおりの花を咲かせて尼寺らしいやさしい雰囲気を醸し出している。

 本尊の十一面観音は、今は秘仏となってなかなか拝観出来ないが、會津八一の頃には薄暗い本堂の中で観音菩薩の紅い唇がひときわ印象的だったのだろう。僅か1メートルばかりの木彫りの仏像だが、右足を少しずらして腰を捻った量感豊かな体躯は堂々とした存在感を示している。

 會津八一が初めて法華寺を訪ねたのは1908 明治41年 27歳の夏だが、「この像を天平盛期の製作とし、ことにこの皇后の在世の日に来朝したる異国美術家の手に成りし写生像なりとして、専門史家の間にも信ぜられたる明治時代に、これらの甘美なる伝説に陶酔して、若き日の作者が詠じたるものなり」 と、『自註鹿鳴集』 に書いている。

 八一より 8歳若い和辻哲郎の 『古寺巡礼』 は1919 大正8年に出版された。これは前年5月に29歳の和辻が奈良の古寺を訪ねた時の印象と考察を綴ったものだが、この十一面観音について、「幽かな燈明に照らされた暗い厨子のなかをおずおずとのぞき込むと、香の煙で黒くすすけた像の中から、まずその光った眼と朱の唇とがわれわれに飛びついて来る。豊艶な顔ではあるが、何となく物すごい。この最初の印象のためか、この観音は何となく 「秘密」 めいた雰囲気に包まれているように感ぜられた」 「その美しさは、天平の観音のいずれにも見られないような一種隠微な蠱惑力を印象するのである」 と書いている。

 薄暗い本堂で十一面観音像と対した時にまず飛び込んでくる大きな目と紅い唇、やがて見えてくる全身の姿に惹きつけられる青年の姿が眼に浮かんでくる。今日ではこの像は平安時代初期の制作とされているが、美術史研究がまだ進んでいなかった当時は光明皇后をめぐる伝説と重ねられて多くの人を天平の昔へと誘っていったようすが窺える。(和辻は平安初期説にも言及している)

 なお、『鹿鳴集』 には、「法華寺温室懐古」 の詞書で 3首収録されているが、寺の境内には浴室が今も残されている。蒸し風呂の施設で室町時代に改築されたが敷石の一部は天平時代のものだという。 (写真) 
 
 歌碑は、奈良の写真家として有名な入江泰吉夫妻によって1965 昭和40年11月に建てられた。ほぼ等身大で、最高級の御影石とされる庵治石(あじいし、香川県 )に 「ふちはらの…」 と彫られているが、歌の後に 「法華寺にてよめる」 とある。東門を入って本堂に向かう途中に建つ碑には八重桜の花びらが静かに降りかかっていた。 
 
(會津八一歌碑巡礼 奈良 6)