沼津市の千本松原にある若山牧水記念館に入ると、展示ケースに一つの盃が置いてあるのに気づく。内側を細い二本線で縁どり、こうもりと柳を描いた藍色が美しい染付けの薄手の盃だ。酒を愛した牧水愛用の盃の一つだろうと誰でも思う。(写真は 『館報』 より)

  牧水没後に刊行された歌集 『黒松』 の終りのほうにこの盃を詠んだ 「この頃取り出でて用ゐたる」 と題した歌がある。
 
     青柳に蝙蝠あそぶ絵模様の 藍深きかもこの盃に
 
 大正末年から亡くなった昭和 3 (1928) 年までの歌を収めたこの歌集からも察せられるように、この長崎の弟子から贈られた盃は牧水が最晩年に愛用したもので、記念館の 『館報』 (№22) に寄せられた文によれば、死の当日枕もとにあったのを夫人が故人の供養にと棺の中に入れたところ、火葬後の骨揚げのときにそのままの姿で出てきたという。
 
 酒に生き、酒で死んだ牧水の魂が、現れたように思われたのではないだろうか。

 牧水は1928(昭和 3)年 9月17日に亡くなるが、その死因は 「急性腸胃肝臓硬変症」 とある。一日 3升といわれた酒の量を減らすように医者に言われて朝 2合、昼 2合、夕方 6合で一日 1升にと節酒に努めたがそれもなかなか守れなかったという。普通の人の酒の量を遥かに超えるその量に驚くが、その酒を詠んだ歌は酒好きには共感を覚 えるものがなんと多いことだろう。大正10 (1921) 年刊行の歌集 『くろ土』 に収められた歌より。
 
  酒やめていのち長めむことはかり するといふことのおもはゆきかな
  癖にこそ酒は飲むなれこの癖と やめむやすしと妻宣(の)らすなり
  宣りたまふ御言(みこと)かしこしさもあれと やめむとはおもへ酒やめがたし
  酒やめむそれはともあれながき日の ゆふぐれごろにならば何(な)とせむ
  朝酒はやめむ昼ざけせんもなし ゆふがたばかり少し飲ましめ
  喰ひすぎて腹出してをるは飲みすぎて 跳ねて踊るに比すべくもなし
  酒なしに喰ふべくもあらぬものとのみ おもへりし鯛を飯のさいに喰ふ
  うまきものこころにならべそれこれと くらべ廻せど酒にしかめや
 

 
  ところで若山牧水の名は私にとっては石川啄木の臨終の場 (明治45(1912)年4月13日) にい た唯一の友人、文学者として記憶にある。啄木は明治43年10月に牧水の主宰した詩歌誌 『創作』 に 「九月の夜の不平」 と題する34首の歌を発表している。その中には次のような注目すべき歌が含まれている。大逆事件と韓国併合の年である。

  つね日頃好みて言ひし革命の 語をつゝしみて秋に入れりけり
  秋の風我等明治の青年の 危機をかなしむ顔撫(な)でゝ吹く
  時代閉塞の現状を奈何(いか)にせむ 秋に入りてことに斯く思ふかな
  地図の上朝鮮国にくろぐろと 墨をぬりつゝ秋風を聴く
  明治四十三年の秋わが心 ことに真面目になりて悲しも
 
 啄木の臨終の場にいたのは妻節子、娘京子、父一禎と牧水の 4名だった。牧水が見舞ったとき 「妻君が入って来て、石川君の枕もとに口を寄せて大きな声で、「若山さんがいらっしゃいましたよ」 と幾度も幾度も呼んだとき、彼は私の顔を見詰めて、かすかに笑った。あとで思へば、それが彼の最後の笑であったのだ。「解ってゐるよ」 といふやうなことを云ひ度かったのだが、声が出せなかったのであらう。」 と後に書いている(『創作』 大正 3年 1月)
 
 明治44年秋から45年に成った歌を収めた牧水の歌集 『死か芸術か』 にある挽歌 4首
 
  初夏の曇りの底に桜咲き居り おとろへはてて君死ににけり 
  午前九時やや晴れそむるはつ夏の くもれる朝に眼を瞑ぢてけり
  君が娘は庭のかたへの八重桜 散りしを拾ひうつつとも無し
  病みそめて今年も春はさくら咲き ながめつつ君の死にゆきにけり
 
 私はいま 『石川啄木論』 (中村稔 青土社 2017年 5月刊) を読んでいるので啄木のことを考えることが多いが、あらためて、生きることと酒、友人とその死、時代は変わっても変わることのない、避けることの出来ない問題と感じながら今日も酒を飲む。