11月にメシアン(1908~92)の歌劇 <アッシジの聖フランチェスコ> 全3幕が演奏会形式で読響(読売日本交響楽団)により上演されて話題となった。指揮はシルヴァン・カンブルラン(常任指揮者)で、休憩時間を除いて4時間20分におよぶ大曲である(全曲日本初演)。はたして聴衆の心に聖フランチェスコはどのように蘇っただろうか。

 
 イタリアの写真家エリオ・チオルの写真集に 『アッシジ』 がある(ASSISI 岩波書店)。スパ シオ山の斜面に盛り上がる大きな丘、その中腹にアッシジの街は広がる。写真集は霧の丘の幻想的なモノクロ写真から始まる。季節は初冬だろうか、草木が霧氷で白く輝く印象的な光景が-街を包む自然が見事な写真で展開されると、まず丘の上に要塞ロ ッカ・マジョーレを訪ね、視線は街に下って石の街アッシジの建物や道、聖堂が次々に登場する。やがて雪にうっすらと覆われた聖フランチェスコ大聖堂のカラー写真を境に今度は大聖堂に溢れんばかりに描かれた壁画・天井画がチオルの目を通して見事 なカラー写真で展開する。

 この写真集は石の街アッシジ、イタリア初期ルネサンス絵画の宝庫アッシジを自然と精神性・宗教性の深みから見事に見るものに伝えてくれる。
 
 

 アッシジは南方のローマからも北方のフィレンツェからも鉄道で180kmと少しのウンブリア地方にある。車窓からは山の中腹や丘の上に作られた古い街を眺めることが出来る。アッシジもそんな街の一つで、糸杉やオリーブの木の彼方に壮大な聖フランチェスコ大聖堂をはじめ高い鐘塔や丸い屋根、石の建物のかたまりを眺めることが出来る。サッカーの中田選手がかつて所属したチームの街ペルージャはこの地方の中心都市でアッシジとは抗争の歴史があった。 
 
 アッシジの旧市街は石の壁で囲まれている。街は見事に石ばかりで出来ているが決して冷たい感じはしない。どの建物もスパシオ山で採れる淡い橙色の石で造ることに決められているそうで、そのために中世の街の外観が見事に今日も保たれている。石の門を潜り狭い石の階段を右に左に曲りながら登っていくと、日本でいえばさしずめ道端のお地蔵さんにあたる建物の壁の小さな窪みに祀られたマリア像が道行く人を 見下していたりする(写真下)。石を積んだ建物の壁が3階の高さまであったりすると私のような地震の多い国の住人はなにやら怖くなる。石の道を登りつめて大聖堂の上の広場に着くと、ウンブリアの眺めが目の前に広がり、オリーブの葉が風を受けて白く輝いていた。
 

 
 
 
 12世紀末にアッシジの裕福な商人の家に生れたフランチェスコは青春を楽しんでいたが、街の麓の崩れかけた小さなサン・ダミアノ聖堂で十字架のキリストから「わたしの家を再建しなさい」という声を聞き聖堂の修復を始めた。やがて礼拝堂ポルチウンクラでの司祭の説教で聖書の 「行って 「天国は近づいた」 と、高らかにのべ伝えなさい。」 「金銀や銅貨を帯に入れてはいけない。旅袋も、二枚の上着も、靴も、つえも持ってはいけない」(マタイ伝 10・7-13)を聞いて衝撃をうけた。フランチェスコの回心である。

  「教会を建てる隠者フランシスコはこの時から、福音を述べる使徒フランシスコとなった。悔い改めと平和の福音の告知者となった。聖堂を出るや、彼は靴をぬぎ、つえを捨て、寒さをしのぐマントをぬいだ。帯の代わりになわを腰に巻き、その地方の農夫の着るような、頭巾のついた長い褐色がかった灰色の上っ張りを着、はだしで、使徒のように世に出て、望む者に主の平和をもたらそうと用意した」 と、ヨルゲンセ ンの 『アシジの聖フランシスコ』(永野藤夫訳、平凡社)に書いてある。ここからフランチェスコのよく知られた苦難の多い新しい生涯が始まった。

 フランチェスコはイエス・キリストのように生きようとした。しかしどんなに腐敗・ 堕落が指摘されようとも当時の教会の権威は絶大であり、キリストの時代とは決定的に異なっていた。彼がサン・ダミアノ聖堂で聞いた 「わたしの家を再建しなさい」 という声は深い意味をもっていたようである。また、清貧と従順と貞潔において福音に従って生きることは修道士・修道女の義務であり、特に新しいことではなかった。しかしフランチェスコが自身と仲間に求めた清貧は 「徹底した無所有」 であった。従順は造物主である神への感謝、神のすべてを受け入れることであり、また教会の権威に従うことでもあった。

 当時の修道院は清貧を修道士・修道女に求めても、共同体としての修道院の多くは 豊かな所有に恵まれていた。そうでなければ個の清貧-無所有は成り立たなかった。 しかし、フランチェスコとその仲間がいかなる財産をも持たないことは、共同体も無所有であり、共同体には依存しないことを意味する。「共同体に依存せず神のみに依存する個人になることによって、個人と神とを直結せしめることである。「個人」 がこれにおいて成立するのである。真に内面的な宗教がこれにおいて成立する。フランチェスコの兄弟団は特定の閉じた共同体でなく、開いた共同体、やがて 「人類」 である。それは直接的に個人として 「貧しきキリスト」 に随うことによって達成される。」(下村寅太郎 「聖フランチェスコの悲願」)
 

 
  フランチェスコは死の前年(1226)に 「太陽のうた」 を作った。肉体は病み衰え、視力も殆ど失われていたという。そのようななかで造物主である神をほめ讃え、近づく死を伝えられると両手をあげて 「では歓迎します。姉妹 死よ!」 といって太陽のうたの最後に一節を付け加えたと伝えている。 フランチェスコの古い伝記の一つとされる 『聖フランチェスコの小さな花』(田辺保訳 教文館)は最後のページにこの 「太陽のうた」 を記している。
 
いと高く、いと強き、主、わが神よ。/讃美も、さかえも、ほまれも、みな主のもの、/豊けき恵みも。
主にこそ、すべてはふさわしい。いと高き主。/だれひとり人は、口にする資格もない、/主のみ名を。
主をこそほめたたえよ、すべての被造物とともに。/わけてもとくに、兄弟なる太陽とともに。/朝がくる、主こそは、まことの光のみなもと。/美しい太陽、 燦然とかがやくその光、/いと高きにいます主、太陽こそは主のしるし。
(中略)

主をこそほめたたえよ、姉妹で母なる大地のため。/われらを支え、われらをはぐくみ、/いろんな果物を産み出してくれる、色とりどりの花や野の草も。(中略)
主をこそほめたたえよ、姉妹なる死、/からだの死のために。/生きる人間はひとりも、死を逃れられぬ。/死に至る罪の中で死ぬ人々はわざわいだ。
死のとき、主のきよく聖なるみ心のままの/姿とされている人々は、さいわいだ。 /第二の死も、その人々にはなんのおそれもない。
主をほめよ、主をたたえよ、主に感謝せよ。/心からへりくだって、主に仕えよ。
 
 また、このころ彼は兄弟たち(仲間)に別れの言葉を残した。半生を振返った短い言葉のなかであらためて彼の信仰の根本を後に残る人たちに伝えようとした。そこには、「主はさらにわたしに以前も今も、聖なるローマ教会の規則に従って生活している司祭への大きい信頼をお与えになったので、彼らがわたしをいじめたとしても、彼らは叙階された聖職者なので、わたしは彼らの保護を求めます」 と書いてあった(『アシジの聖フランシスコ』)

 フランチェスコの清貧-徹底した無所有の実行は、当時の教会に飽き足りない有産者・知識階級から貧しい庶民にいたるまで多くの人々を惹きつけてヨーロッパ各地に仲間-共鳴する者が広がっていった。そこには既成の権威-教会への批判が含まれていたが、一方でフランチェスコのローマ教会への従順の姿勢が異端攻撃を免れることとなったのであろう。
 

 
 
 
 アッシジの麓からはじめて壮大な聖フランチェスコ大聖堂を見たときに感じた違和感は、洋の東西を問わず宗教の持つ宿命なのだろうか。徹底した清貧-無所有とあの大聖堂の姿は、徹底して南無阿弥陀仏を説いた法然や親鸞、「ただひたすら坐禅を(只管打座)」 と説いた道元と知恩院や東・西本願寺・永平寺のあの大伽藍を思い出させてくれた。

 3000人とも5000人とも伝えるフランチェスコの兄弟たちがアッシジに集まった筵
(むしろ)の総集会(1221年)のように、仲間が多くなればその統制や組織化が避けられなくなる。するとそれに長けた人物があらわれる。晩年のフランチェスコが懐いたのはこ うした動きの中で徹底した清貧-無所有が現実と妥協していくことへの危惧であった。 先の別れの言葉にはこうした彼の思いが込められていたといえよう。

 死の2年前には十字架のキリストと同じ箇所に傷を受ける奇蹟
(聖痕)がおきるが、最晩年のフランチェスコは孤独の思いを深めていったことであろう。1226年10月3日回心の場所ポルチウンコラで亡くなると、遺骸はサン・ダミアノ聖堂に寄り、彼の教えに忠実に生きた聖女キアラの別れを受けてサン・ジョルジュ礼拝堂(現サンタ・キアラ大聖堂、写真下)に埋葬された。その後1228年に教皇によって聖人に列せられ、1230年には兄弟エリアの建立した壮麗な大聖堂に遺骸が移されて今日に至っている。 
 
 
 
 現在ア ッシジの市街地や郊外のフランチェスコゆかりの場所に建つ大聖堂は、いずれも彼の死後に建てられたものである。今はサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ大聖堂の中にある小さな礼拝堂ポルチウンコラは間口 4m奥行 7mしかない(ここには1585年に日本の天正少年使節の一行が訪れている)。どの聖堂もつつましかった。彼の生きた時代の風景を想像しながら、私は同時代の日本の様子に思いを馳せた。親鸞はフラン チェスコの 8年前に、道元は19年後に生れている。いわゆる鎌倉新仏教の時代である。もちろんまだ大伽藍はなかった。
 

 
 アッシジは昔も今もフランチェスコの街である。土産物屋には彼の肖像が溢れている。そして大聖堂の絵画群が多くの人々をアッシジに招き寄せてきた。 大聖堂は、ステンドグラスを通して明るい外光が入る上堂と、窓が少なくて暗い洞窟のような下堂からなり、下堂の下に墓室が造られている。フランチェスコはここに眠っているが遺骸の略奪を恐れて1476年から1818年まで約350年間完全に閉鎖されていたそうだ。

 聖堂が完成した時にはまだ壁画は描かれていなかったが、やがてフィレンツェやシエナの画家たちが聖堂の壁や天井を絵画で埋めていった。訪れたものはその絵画の数にただただ圧倒される。

  上堂の壁面を飾るのは28枚のフランチェスコ伝とその上 2段に描かれた旧約と新約聖書の場面である。28枚の絵はジョット(1267頃~1337)の作とされていたが研究の結果ではジョットの作は 7枚であとは仲間の作のようである。有名な 「小鳥に説教するフランチェスコ」 も残念ながら別人の作で、ジョットが描いたのは 「マントの上を歩くフランチェスコ」 「聖痕を受けるフランチェスコ」 「フランチェスコの死」 などとされている。「マントの…」 には今も街の広場に建っているミネルバ神殿が描かれている。「小鳥に…」 は、フランチェスコが小鳥たちに神がくれた生命と自由への感謝を説く間小鳥たちがじっと聞き入っていたという最晩年の 「太陽のうた」 と重なるエピ ソードを描いたもので、下堂にも別人の作品がある。上堂奥の祭壇の近くにはジョ ットの師チマブーエ(1240頃~1302頃)の絵が並ぶ。
 
 
  
 下堂も内部のほとんどが絵と模様で埋め尽されているが、チマブーエの 「玉座の聖母子と四天使、聖フランチェスコ」 の聖フランチェスコの正面像はお土産によく見るものである(写真)。マルティーニ(1284頃~1344)の 「聖フランチェスコ」 「聖キアラ」 の肖像はどちらも惹きつけられるが、気品を湛えた聖キアラは特にすばらしい。ロレンツ ェッティ(1285頃~1348)の 「聖母子像」 は壁画の金地が夕日に輝くので 「黄昏の聖母」 ともいわれている。聖母の左には聖フランチェスコが立っているが手の甲に聖痕が描かれている。

 大聖堂の壁や天井に描かれた絵は大半がフレスコ画なので、油彩画とは異なって透明感のある柔らかで静かな色彩の造る画面が堂内の雰囲気によくあっている。堂内には聖フランチェスコとゆかりの人たちが静かに、しかし確かに存在しており、これらの絵画群にルネサンスの時代の到来を感じ取ることができる。
 

 
 アッシジに足を運んだ日本人はこれまでに大変な数にのぼるであろう。明治から大正の初期、日本ではまだ西洋の美術に直接触れる機会があまりなかった時代に、ヨー ロッパに出かけた人たちは貪るように絵画や彫刻を見て回った。私が関心を寄せる荻原碌山や高村光太郎も例外ではなかった。

 明治40(1907)年、フランスから日本への帰途、碌山はイタリア・ギリシア・エジプトを見学して「イタリア・エジプト旅行日記」 などを残している。フィレンツェ に 2週間も滞在した後アッシジに着いたのは翌年の 1月 6日だった。旅行日記に、「アシシは小さい町だが、高き岡の上に建てられた実に美麗な町だ。眼下にウンブリア平原を見下し、崎嶇たる佳絶の小峰を背負ふてゐる。通じて清潔に、風紀も仲々美しい 様だ。殊に婦人の容貌の美は伊太利第一と僕も思ひ、人も言ふて居る」 と書き、「ジョ ットの寺」 の 「小鳥を教へて居られる図が非常なものだし、フランセス歓迎の図之に次ぐ」 と評している。パドヴァではジョットについて 「彼のおもしろ味は彼の大信仰であらう。彼の忠実なる自然の研究であらう。美はしき彼の品性の発露であらう。偉大なるダンテなどとの交遊より来れる影響も少くあるまいと思はれる。彼の表情、コンポジション、この非凡と言はんより、後世何人もよく及ばんことを信ずる」 と書い ている。

 高村光太郎もフランスからの帰国の直前にイタリアに旅をした。「ロムパルジヤからミラノ、パドア、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、ヴェニスと見てまわり、さんざん古美術と、寺院音楽とにたたきのめされ、ふらふらになってパリに帰った」 と書いて いる(「父との関係」)。おそらくアッシジにも立寄ったことであろう。
 

 
 
 
 第一次世界大戦後の大正末になると西洋の美術に直接触れる機会が増え、ヨーロッパに出かける芸術家もだいぶ増えてきた。しかし印象派やポスト印象派の油彩画の圧倒的な影響のもとで日本画を志した青年達の悩みは深刻だった。今の時代の日本画はいかにあるべきか。日本画に未来はあるのか。こうした問を胸に、彼らはヨーロッパの絵画を見て回った。

 日本画の大家前田青邨(1885~1977)は大正11(1922)年に、同じく日本画の小林古径とともに日本美術院の留学生として渡欧、ロンドン・ローマ・フィレンツェ・パ リなどに滞在した。後に東京藝術大学で前田青邨の助手となった平山郁夫は、「ア ッシジのサン・フランチェスコ聖堂で、ジョットの壁画に接したときの感動を何回もうかがったことがある。」 「青邨先生は、「日本画について疑問があったが、ジョットの壁画を見たとき、これは日本画と同じではないかと、油絵に対する、コンプレックスが消えた思いで、よし、日本画で進もう」と自信を取りもどされたという」と書いている(「ジョットの壁画」)。ジョットらが描いたフレスコ画は、壁に塗った漆喰がまだ生乾きのうちに水に溶かした顔料を塗る技法で、日本画に似ていた。

 同じ頃、京都の竹内栖鳳の門下で大正 7(1918)年に国画創作協会を興し、ルノア ール・セザンヌ・ゴーガンらの影響を受けた日本画を発表して注目を集めた若い画家たち-土田麦僊・小野竹喬らがヨーロッパに渡った。大正10(1921)年のことである。

 土田麦僊(1887~1936)は翌大正11年1月にジェノヴァ・ミラノ・フィレンツェ・ アッシジ・ローマ・ナポリ・ポンペイなどを巡り、ルネサンス期やポンペイのフレスコ画に日本画との共通点を見出し、「日本画家であることを幸福と感じる」 と弟の土田杏村に書き送った。彼の関心はジョットよりもルイーニ(1480~1532)にあり、ミラ ノでその作品を多数見ることが出来たときには妻千代に宛てて、「兎に角自分の神だと思ふ。自分には何といってもこのルイニと希臘彫刻だ。この色だ。この形だ。この優美だ。この愛だ。全く慈母の様な愛だ。何の嫌味もない。何の哲学もない。何の理屈もない。只美しい芸術。只美しい空気がある。恍惚とした世界に自分は居るのだ。ルイニは決して宗教画らしい宗教画ではない。それは平凡な人間生活だ。只伊太利人の生活だ。キリストは女の様な優美な顔をして居る。マリアは普通の美しい母顔だ。山や野は自然のままだ。技巧も極めて自然な只先の切れたボツボツした筆で極めて自然な描き振りに過ぎない。それがあの雰囲気を作って迫って来るのだ」 と書いた。彼の深い感動が伝わってくる(『土田麦僊展図録』)。大正13(1924)年に発表した彼の代表作 「舞妓林泉図」 にはルイーニの強い影響が指摘されている。 
 
 前田青邨に師事した平山郁夫(1930~2009)は言うまでもなく今日の代表的な日本画家だが、昭和36(1961)年にユネスコ・フェローシップに合格して渡欧したときにアッシジを訪ね、昭和48年の夏には東京藝術大学のイタリア初期ルネサンス学術調査に参加して2ヶ月間大聖堂でジョットやチマブーエの絵を模写した。そのときのことを、「古 い、一二世紀の石造りの客室に泊めていただき、毎朝、小鳥の鳴声で眼が覚めた。青邨先生のお言葉から二〇年が過ぎている。ユネスコ・フェローシップのときから一〇年である。同じく絵具の素材で、同じような絵画的技法で、東洋の日本人が、ジョッ トの壁画を模写している。画家としての造型感覚は、今のヨーロッパ人より、われわれのほうが近いのだと思いながら、私は、二か月間も、サン・フランチェスコ聖堂で、ジョットやチマブーエの壁画と毎日、接して過ごした思い出がある」 と書いている(「ジョットの壁画」)
 

 
 聖フランチェスコの街、ジョットの絵のある街-アッシジを訪ねた旅行者の多くは ローマへ、フィレンツェへと先を急いでいくことだろう。私もそういう人たちと大差ない旅行者だった。しかし、石の街の印象と心に残る何かがあった。かなわぬ夢だろうが、出来るものならしばらくアッシジに滞在したいものだ。アッシジは、聖フ ランチェスコの時代と芸術は、日本と深いところで縁があることを、その場でじっくりと確かめてみたいと思う。

 街を囲む壁の外にある穴倉のようなレストランでおいしいパスタを食べた。そのとき飲んだ地ワインを記念に売ってもらい、はるばる日本まで持帰った。アッシジの文字が入ったワインのラベル(写真)に石の街が偲ばれる。