ロダンに師事し日本近代彫刻の開拓者となった荻原守衛が、絵画修業のためにアメリカ からパリにやってきてまもなく出かけたのがパンテオン(Panthéon)だった。守衛の明治36(1903)年 10月の兄あての手紙に次のようにある。
 
 「慕い慕いし仏京パリーに参り候。町の美麗さ、女の艶美なる事、目を廻す計りに候。 レキサンブルグやルーブルの美術館の話など申上げてもウソとしか御聞き被下らぬと思いますから、マー皆々様一つ奮発して見に御出かけなされ候、よろしく存候。昨日はナポレオンの凱旋門へ登りましたが、大理石の大塔で、まるで富士の峰へ登った時 の様な気がしました。巴里(パリ)城中一眼でした。一昨日はパンテオン(招魂社)へ参りまし た。仏国現代の大画伯の壁画を見まして目を廻しました。」
 
 憧れのパリにやってきた喜びが伝わってくるが、しかしニューヨークで働いて貯めたわずかのお金を持ってパリに来た守衛は、パリでの生活を楽しむ余裕もなく、翌年 5月までと自分で期限をきっての超貧乏生活での絵の修業であった。そんな彼の支えになったのが同じ信州の出身で何年か前からパリで絵の勉強をしている中村不折である。不折が絵の勉強に通っていたのがアカデミージュリアンという美術学校だったので守衛がそこに通うようになったのも自然の成り行きであろう(なんとこの学校は今も元の場所にある)

 この学校で絵を教えていたのがジャン ・ ポール ・ ローランス(Jean Paul Laurens)であっ た。彼はフランス画壇の大家の一人に数えられる存在だったが、その代表作の一つがパンテオンにある3枚続きの壁画 「聖ジュヌヴィエーヴの死」 で守衛はそれを見にパンテオンに出かけたわけである。そして守衛に深い関心を持っている私もその絵を見たくて出かけた。しかし期待は裏切られた。内部の修理のために立ち入ることが禁止されていたからである。数年後に再訪したときも同じであった。日本の寺社の修理のことを考えるとそれも仕方ないかと思うが、果たして守衛が感激したこの壁画の大作を私は見ることがあるのだろうか。このローランスの親しい友人が彫刻家オーギュスト・ロダン(Auguste Rodin)である。二人の友情の証(あかし)がロダンのローランス像であり、ローランスのロダンの肖像画で、ともにロダン美術館(パリ)に飾られている。

 ロダンの 「考える人」 に深く感動した荻原守衛が本格的に彫刻を勉強するようになるのは二度目の渡仏後であるが、不思議な人の縁を感じるのは私ばかりではないだろう。
 

 
 ところで守衛から10年ほど後にパンテオンを訪れた波乱に満ちた生涯で知られる経済学者河上肇は、そのときの印象を 「倫敦(ロンドン)のウェストミンスター寺院と巴里のパンテオン」 という文章に残している(『祖国を顧みて』 岩波文庫)。そこで河上は、ウェストミンスター寺院では尊敬する偉人と十分に心の会話を交わせるのに対してパンテオンでは、見学者の集 まるのを待って案内者が短い時間で説明して終わりという 「一分間たりとも落ち付いて英雄の墳墓を仰ぎ、追慕の念を催し懐古の情に耽る遑(いとま)がない」 と腹を立てている。しかし私が訪れたときはそんなことはなかった。地上で工事をしていても地下の墓室は公開していた。しかし訪れる人は少なく薄暗い墓室の中を自由に動くことができたが少々怖い思いがした。

  入口を入るとすぐ右手にルソーの立派な柩(ひつぎ)があり、その反対側にはヴォルテールが眠っ ている。洞穴のような通路を先に進むとユゴーやゾラの柩が置かれており、私の知らない偉人が何人もいる。薄暗い光の中を一つ一つお参りしていくと人が少ないこともあっていささか無気味になる。日本にはこのような習慣がないので特にそう感じるのであろう。しかし一方で、もし日本でこのような施設をつくったらどんな人が祀られるだろうかとも考えてしまう。この建物がフランスの偉人の墓所になったのは大革命の後だそうだが、その頃は日本では松平定信の寛政の改革が行われた江戸時代だったことを考えると、彼我の近代化の歩みの差を改めて感じる。
 
 
 
 奥のほうまで行って左に曲がるとそこにジャン・ジョーレス(Jean Jaurès)の柩があった(写真)。第一次世界大戦前に平和のために行動した社会主義者で、独仏開戦の直前にテロリストの凶弾に倒れた人物である。私は長編小説 『チボー家の人々』 (ロジェ・マルタン・デュ・ ガール 白水社)のその場面を鮮明に思い出した。ジャックをはじめ戦争阻止のために行動していた当時のフランスの人たちにどんなに大きなショックを与えたかを。
 
 「ぱんという短い音、パンクしたタイヤの音、ジャックは、はっと口をつぐんだ。つづ いて、ほとんどときをおかず二度めの銃声。そして、ガラスが割れた音。部屋の奥では、鏡が一枚、微塵になっていた。(中略) ジャックは、本能的に立ちあがっていた。 そして、ジェンニーを守ろうと腕を前へ差しのべながら、目でジョーレスを求めてい た。一瞬ジョーレスが目に入った。《おやじ》 のまわりには、その友人たちが立っていた。だが、ジョーレスだけは、落ちつきはらって、いままでの席にかけていた。ジャ ックの目には、何か落としたものを拾おうとでもするかのように、静かにこごみかけるジョーレスが見えた。だが、それきり姿は見えなかった。」(『チボー家の人々』 63)
 
 ジョーレスの死後、ドイツのロシア ・ フランス ・ イギリスとの開戦で戦争は一気に世界大戦に拡大する。当時パリに滞在していた島崎藤村は、「平和な巴里の舞台は実に急激な勢いをもって一転しました。それはあたかも劇の光景を全く変えるにも等しいものが有りました。僅一週ばかりの間に、私は早や悲壮な、戦時の空気の中に居たのです。この劇的光景を一層トラジックにしたのはジョオレスの最後でした。あの社会党の首領がモン ・ マルトルの料理店で暗殺されたという報知が伝わったのもその日のことです。」 と 『朝日新聞』 に書き送った(河盛好蔵 『藤村のパリ』 新潮文庫)。暗殺されたのは1914年7月31日である。
 
 「《おお》 ジャックは、胸刺されるような無力を感じながら考えた。《事はきわめて大が かりに準備されていたのだ。……戦争というものは、神がかりにかかった国民がいなければできるものではない。まず、その手初めが心の動員だ。それさえすんだら、人 間の動員なぞ、まったく物の数でもないんだ!》 」 (『チボー家の人々』 64)
 
 この一節は、理想喪失の現代日本、長い経済不況からの脱出感を持てない我々に何かを問い掛けてくるようにも感じられる。我々日本人もすでに 「心の動員」 をかけられ始めているのではないかと。
 

 
 
 
 パンテオンの建っている場所はセーヌ川左岸の小高いところで、周りをソルボンヌ大学やコレージュ ・ ド ・ フランスなどいくつもの学校に囲まれている文教地区(カルチェ・ラタ ン)である。地下鉄を降りて地上に出ると知らない土地では方向が分からなくなることがある。大きなパンテオンもその周りを丈の高い建物に囲まれているので道を歩いていてはその姿を見ることができない。そんなときに親切に道を教えてくれたのは学生らしい若者 だった。

 偉人たちの柩へのお参りを済ませた私は、いよいよあまり大きくない石の螺旋(らせん)階段を登り始めた。261段登ると明るい回廊に出る。そこはドームの基部にあたり高さ 83m だそうで、パリ市街を広々と見渡すことができる。荻原守衛は凱旋門からの眺めに感激していたがパンテオンのほうがはるかに高く、しかも市の中心部にあるのでエッフェル塔を含む眺 めでは最高であろう。すぐ近くには有名なノートルダム寺院が、その左手にルーブル美術館があり、北西の方向やや遠くにエッフェル塔が建ち、その手前の金色のドームがナポレオンの墓のあるアンヴァリッドである(写真)

 高いところからの眺めはまことに気分のよいもので、しばらく楽しんだ後に今度は周辺の町を散歩することにした。学生の町らしく大きな本屋や古本屋があり、安い食堂があり、 カフェがあり、ローマ時代の遺跡まである。そのうえ近くにあるリュクサンブール公園が憩いの場になる。

 言葉が不自由でも何とかなるもので、本屋では 『星の王子さま』 が買えたし、カフ ェでは 「カフェオレエ ドゥ クロワッサン」 と注文して面倒な会話にはならずにカフェオレと二つのクロワッサンを味わうことができた。さあ、明日もパリの散歩に出かけようと心の中でつぶやきながら。 
 
 テロで命を落す心配をしなくてもよかった時代の思い出である。