建築家隈研吾さんが、著書 『自然な建築』(岩波新書 2008)で栃木県那須町にある 「石の美術館」 について、その発端から完成までを書いているのを読んだ時から、いつか訪ねてみようと思っていた。それがかない美術館を訪ねることができたのは何年か前の9月上旬のことだった。

 美術館は東北本線黒田原駅からバスで10分ほどのところにあるのだが、そのバスは一日4便で、朝の便の後は午後2時、あとは夕方しかないので利用するのは2時の便しかない。バスを芦野仲町で降りると、そこは昔の奥州街道芦野宿の中心地で、本陣があったという場所にめざす美術館が建っていた。

 美術館建設の発端は、不要になった農協の石蔵を買った地元の石材会社がその古い石蔵を利用してなにかできないかと考えたことにあった。話を持込まれた隈さんは、当初は乗り気ではなかったが会社社長の 「予算はあまりないですが石はいくらでもあります。仕事は現場の職人になんでも相談してください。いつまでにといった制約もありません」 といった言葉に考え直すことになった。

 なぜなら、設計者にとっては大きな仕事の現場は常にスケジュールとコストにしばられて 「とりあえず」 が 「決定」 となり、現場の職人と接することもほとんどなくて、工事が不本意に進められていくことが多かったからである。 「もしかしたら自分の思い通りの仕事、満足できる仕事が出来るのではないか」 と、隈さんは考えたのだろう。
 

 
 
 
 
 昭和初期に建てられた石蔵は、大中小三つが四角い敷地に逆 L字形に並んでいた。石はこの土地で切り出された芦野石である。この石は大昔那須火山が大噴火した時に発生した火砕流が堆積した安山岩で、御影石や大理石のような華やかさはないが柔らかくて加工がしやすいので蔵や塀 ・ 縁石などさまざまに利用されてきた。すぐ隣の白河(福島県)で採れる石も同じ種類で白河石といった。

 蔵は物を収納するための建物だから内部と外部は完全に遮断されている。大きな石をひとつひとつ積み上げた石蔵(組積造)の重量感、その重厚な感じは相当なものである。この石蔵と敷地全体を利用して

 新しく一つの大きな美的空間を創造するにはどうしたらよいのだろうか。いろいろな可能性の中から建築家が選んだのは、素材としては豊富にある石材を木材のように利用して、蔵の持つ密閉性に対しては透明性-光と空気を、重量感に対しては軽快な感じの建物を、それに水平な広がりをもつ水面、これらと三つの石蔵を有機的に結合して新しい美的空間を造りだすことだった。 
 
 石材を木材のように使うといってもそう簡単ではない。こんな時に役立ったのが石職人の経験と知恵だった。石は大きな直方体ではなく柱を縦に切ったような細長い形にして横に積み上げて利用する。

 その結果壁面に小さな孔をいくつも開けることが出来て内部に光と空気をもたらし、壁面に変化をつけることも出来る。横に長い格子の壁を作りたいときに出された知恵は、H 字鋼で太い石の柱を補強してその柱に切込みを入れて横の石材を支えるといったものだった。また、芦野石は高熱を加えると赤味を帯びる、白河石はやや黒味を帯びている、大理石の薄片を壁の孔にガラスのように嵌めると障子紙のような効果があるといったことを利用することで芦野石の灰色の単調さに変化をつける工夫もされた。

 設計者がこだわったのは、20世紀の建築の素材を象徴するコンクリート ・ 鉄 ・ ガラスといった自然の素材の加工されたものに対して、石といった自然のままの素材を使うこと、周囲との明確な対比という表現よりも周囲との穏やかな調和による新しい空間の創造であった。
 
 

 
 
 
 かくて完成した石の美術館を見てみよう。入口にあたる蔵は大中小の中の大きさのもので、壁の一部を改造して出入口とし、床には黒味を帯びた白河石を敷いて受付とカフェに利用している。接続する新しい建物は 「石と光のギャラリー」 で、壁面の凹凸と色の変化、大理石の薄片と何もない孔を通る光の強弱、陰影が石で囲まれた内部の空間を魅力的なものとしている。

 これに続くのが小さな石蔵で、四畳の床を作り細い石材を柱のように何本も立てて茶室としていたが、発想も出来もそれほどよいとは思えなかった。この隣に新しく作られたのが 「石と水のギャラリー」 で、壁面の孔からは光と空気を、床の一部には外の池の水を取込んで独特の空間を作り出し、一番大きな石蔵を利用した 「石蔵ギャラリー」 に接続している。こちらはピアノを置いた広い空間で集会や展示に利用される。大きな壁面には太い杉材が縦横に組んであるが、補強と装飾をかねたのだろう。

 こうした建物に囲まれた庭には一面に水が張られて長大な石の格子が一方を区切り、石の通路が水をいくつかに分割する。かくてコンクリートに石を貼ったまがい物ではない本物の石と水と直線で構成された斬新なデザインの石の美術館が昔の奥州街道の宿場に2000年の春に誕生したのだった。

 設計者は次のように語っている。(『自然な建築』)
「古い蔵の保存プロジェクトの場合、建築家がよくやるのは、ガラスや鉄のようなモダンな素材と、古い建築を組み合わせる方法である。このやり方だと新旧の対比がきつくなりすぎると僕は感じた。二〇世紀の建築家は、コントラストがお好みで、コントラストによって、自らの 「新しさ」 を主張しようとした。「新しさ」 に決定的な意味があった。

 今回はコントラストでなくて、グラデーションでいこうと考えた。モックアップ(註)で確認した 「透明な石の壁」 の方法を組み合わせながら、古い蔵も、新しいディテールの透明な壁も、どちらも芦野石という同じ石で作れば、新旧のシャープなコントラストというよりは、古いものから新しいものへと、ゆるやかでゆったりとした変化を作り出すことができる。それは旧から新へのグラデーションであると同時に、重たいものから軽いものへのグラデーションであり、暗から明へのグラデーションでもある。」(p.66~68) (註) 実際と同じ材料で作った原寸模型
 
 このような考えは、ル・コルビュジェに代表される20世紀の建築が、環境からの切断による個性の主張であるのに対し、「グラデーションという手法は、切断されてズタズタに切り裂かれた環境を、修復するためのひとつの助けになるかもしれない」(p.70) という思いからであった。

 心配なのはこの交通不便な地に建つユニークな美術館の存続だが、私が訪ねた平日にも見学者は続いていたのでマイカー利用の現今はあまり心配しなくてもよいのかもしれない。美術館の努力も見逃せない。「石と水のギャラリー」 では抽象彫刻の先駆者である建畠覚造の作品展をしていたが、「石蔵ギャラリー」 でのコンサートも予定されている。

  美術館のこれからの活動を願って帰ることとしたが、バスにはまだだいぶ時間があったので、奥州に続く街道の歴史を今に伝える近くの史跡遊行柳を訪ねることにした。
 

 
 
 
 美術館から北に進むと古い石仏が見られる辺りで道は右に急カーブする。昔の枡形の名残かもしれないと思いながら先に進むと左手の田圃の中に遊行柳が見えてきた。狭い一直線の道を歩いて玉垣に囲われた大きな柳の木の下に立った。すぐ傍には鳥居と西行の歌碑、芭蕉 ・ 蕪村の句碑が建ち、道はさらに正面の神社に通じている。

 西行の歌碑は変体かなをいくつも使った 「道のべに清水流るゝ柳かげ しばしとてこそ立とまりけれ」 の歌だが、碑面には 「新町中」 とあるだけで西行の名も建立年代もなかった。遊行柳に近い街道筋を新町というからそこの人たちが建てたのかも知れない。
(写真下)

  
 
 芭蕉の句碑には 「田一枚うゑてたち去る柳かな」 の句と、「芭蕉」 「江戸春蟻建」 の文字があり、裏には 「寛政十一己未」 「梅香」 とある。年代の下の方は読めないが芭蕉の没後 105年の1799年に建てられた江戸時代の句碑と分かる。

  蕪村の句碑には 「柳散清水涸石処々」 と漢字ばかり並び 「蕪村」 とある。句は 「柳散り清水涸れ石ところどころ」 と読むらしい。碑の裏には 「昭和」 の文字があるがあとは読めなかった。

  遊行柳については 「遊行柳の由来」 という石碑が建っていて小さな文字で詳しく由来が書いてあったが、書いた人や年代については見落した。

  もう一つ建っていた町の教育委員会の説明板が簡潔なのでそれを紹介しよう。
      
「諸文献によると、朽木の柳、枯木の柳、清水流るるの柳ともいう。伝説によると文明の頃(一四七一年)時宗十九代尊皓上人が当地方巡化の時、柳の精が老翁となって現われ上人から十念と念仏札を授けられて成仏したという。
いわゆる草木国土等の非情物の成仏談の伝説地である。後、謡曲に作られ、又種々の紀行文に現われ芭蕉 ・ 蕪村等も訪れたことは余りにも有名である。老樹巨木の崇拝、仏教史的発展、文学や能楽の展開等に関する貴重な伝説地である。」
            
 残念ながら私は能の 「遊行柳」 を観たこともなく、その物語も知らないので家に帰ってから謡曲 「遊行柳」 を読んでみた。

 物語は、諸国遊行の聖(ワキ)が奥州をめざして白河の関を過ぎたところで老翁(シテ)に出会う。老翁は、先年別の遊行上人が通った古道と西行の歌に詠まれた朽木の柳へ聖を案内し、十念を授かって柳の蔭に姿を消した。

 所の男が現れて西行の歌のことなどを語り、聖が念仏を繰返すと白髪の老人(後シテ)が現れる。

  老人は柳の精と名のり、念仏の功徳を賛嘆して報謝の舞を舞い、倒れ伏した柳が 「上人の御法 西吹く秋の 風うち払ひ 露の木の葉も 散りぢりに 露も木の葉も 散りぢりになり果てて 残る朽木と なりにけり」 と終る。

 この謡曲は、観世小次郎信光が永正年間(1504~21)に作ったと考えられ、西行の歌にまつわる朽木柳の伝承に遊行上人と柳の精との話を取り合わせて構想されたものだからあまり事実関係を詮索しても仕方ないが、少しばかり考えてみよう。(謡曲 「遊行柳」 については、『新潮日本古典集成 謡曲集』 伊藤正義校注 を参考にした。)
 

 
 まず西行だが、「道のべに」 の歌は 『新古今和歌集』 巻三の夏歌に収められて 「題しらず」 とあり、芦野で詠んだ歌とは決められない。源平時代の西行は若くして出家したころ歌枕を訪ねて奥州を旅し、晩年には東大寺再建勧進のために再度奥州に出向いている。従ってその途中ここ芦野に立寄った可能性がないわけではないが確かな記録はない。歌にある柳が朽木となって伝えられたという伝説も、その場所を別の地とする史料もあるので、芦野だとする確証はない。  

 次に遊行上人だが、謡曲では 「われ一遍上人の教へを受け」 とあるだけでいつの時代とは特定できない。しかし説明板に 「伝説によると文明の頃(一四七一年)時宗十九代尊皓上人が当地方巡化の時」 とあるのは、いくつかの史料、特に時宗関係の文献に 「十九代尊皓上人芦野柳化度之事」 として伝承されてきたことに依っているのだろう。

 天正20(1592)年の 『蒲生氏郷紀行』 に、「下野の国にいたりぬ。いと清く流るる川の上に柳の有けるをいかにと尋侍るに、これなん遊行の上人に道しるべせし柳よといふを聞て、げにや新古今に、道のべに清水流るる柳かげと侍りしを思ひ出でて」 とあるところをみると、謡曲の物語がこの時代に知られていたことが分かる。なお蒲生氏郷は豊臣秀吉の時代に会津を治めた武将である。

 物語は、源平時代の西行が 「道のべに」 と詠んだ柳は歳月の経過とともに老木となり、倒れ伏して苔むすようになった。室町時代に芦野に来た遊行上人が柳の精の案内でそこに来て、柳の精は成仏したということになる。

 しかし、この物語の舞台がつとに有名な白河の関ではなくてその近くの芦野となったのはなぜだろう。芦野でも現在地となったのはなぜだろうといった疑問が残る。


 
 
 なお、江戸時代以前の奥州への道は奥州街道よりも東を北上していた東山道で、芦野の繁栄は江戸時代に旗本芦野氏が知行地として居城を構え、奥州街道が通って芦野宿が出来てからのことである。だから物語の時代には遊行柳は街道からだいぶ遠かったことになる。 
 
 江戸時代の芭蕉の頃になると今の場所が伝説の地とされていたことは確実といえる。芭蕉と蕪村は江戸時代の人だから、すぐ近くを奥州街道が通り芦野宿は賑わっていたので名所遊行柳に足を留めたことは十分考えられる。特に芭蕉は有名な 『おくのほそ道』 を残しているのでその時のようすが分かる。(写真上 芭蕉句碑)

 芭蕉が千住大橋で船を下りて旅の第一歩を踏み出したのは元禄2(1689)年3月27日(陰暦)で、それから約一ヶ月後の4月20日にこの遊行柳に足を留めて 「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」 の句を残し白河の関に向かった。
 

 
 「清水流るるの柳は、芦野の里にありて、田の畔に残る。この所の郡守戸部某の 「この柳見せばや」 など、をりをりにのたまひ聞こえたまふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日この柳の陰にこそ立ち寄りはべりつれ。」(『おくのほそ道』)
 
 「清水流るるの柳は」 とあるので、芭蕉は西行の歌にゆかり地であることを知っていたことになる。「田の畔に残る」 「柳の陰に」 とあるから伝説の柳はいつの時代か植継がれて緑の蔭を落していたのだろう。今の6月の初めにあたり田植が盛んに行われていたので、芭蕉も早乙女に混じって田植をしたのだろうか。
 
 蕪村の句碑の 「柳散清水涸石処々」(柳散り清水涸れ石ところどころ)は漢字ばかりで 5 ・ 5 ・ 8、これでも俳句といえるのだろうか。西行の朽木柳の伝説をうけての句だろうが詳しくは分からない。町で手に入れた資料には寛保元(1741)年正月の歌で、歌碑は昭和23(1948)年に建てられたとあった。(写真上 蕪村句碑)
 

 
 ところで、柳や石碑を見ながらあることに気づいた。柳の傍には鳥居が建っている。というより、柳や石碑は山かげに鎮座する小さな神社の参道の途中にある鳥居の脇にあるといったほうがよい。神社の前から田圃の中の一直線の参道を振返ると大きな柳はまさにその中ほどに繁っていた。

 小さな社殿の背後は低い山だが、そこには大きな岩が鏡のような岩肌を見せているので鏡山という。その岩の下にある神社は上の宮湯泉神社というが由緒は不明とされており、社殿の前にはこの地域最大の銀杏が立っている。芭蕉に随行した曾良の日記を読むと、「左ノ方ニ遊行柳有」 と書いた欄外に 「左ノ方ニ鏡山有」 と書込まれているので、芭蕉の一行が来た時には遊行柳が今の場所にあったのは確かといえる。
 
 そこで考えるに、山の大きな鏡のような岩は湯泉神社のご神体ではないだろうか。とすればこのような神社はとりわけ人々の崇敬を集めたことだろう。西行や遊行上人の伝説が芦野に比定された事情はここにあったのではないか。その後は謡曲の物語だけが広く知られてこの神社の存在は背景に退いたのであろう。

 さらに考えるに、この鏡のような岩は安山岩(芦野石)である可能性が高い。とすれば、鏡岩-湯泉神社-遊行柳-芦野宿-石の美術館と、岩が生成した太古から人類の歴史時代を経て今日まで細い糸で結ばれていることになると気づいた時、石の美術館を目的として遊行柳も訪ねた私の小さな旅が意味あるものと感じ入ったのだった。
 

 
 今では世界的に活躍する隈研吾さんだが、3年後の東京オリンピックの主会場となる新国立競技場の設計者としてさらにその名が知られるようになった。その完成予想図をみると優しい曲線の建物のコンクリートと木材と緑が融合している。コンクリート ・ 鉄と自然との融合 ・ 調和といった隈さんの建築思想が息づいているように感じられる。建物の完成が楽しみだ。