運慶と並んで天才的な仏師快慶の展覧会が今奈良国立博物館で開かれているが、かつて東大寺再建のリーダー重源ゆかりの播磨の浄土寺に快慶の大作を訪ね、また大阪に安藤忠雄設計の教会を訪ねた話。そのキーワードは ”光” である。
 
 
 
 
 
 大阪府茨木市に安藤忠雄の設計で知られる “光の教会” が建っている。JR茨木駅からバスに乗り10分ほどのところだが、青葉の季節 に私が訪ねたときには同じバスに外国の若者 5人が乗り同じ教会を目指していた。教会は静かな住宅地の道路より少し高くなっている敷地にあまり目立たない姿で建っており、電話でお願いしておいたのでゆっくり見学することが出来た。

 教会の門を入ると左手に教会堂が建ち奥には集会所が建っているがいずれもコンク リート打ち放しの四角い建物でL字型にならび、その凹部にそれぞれの出入口がある。 教会堂入口の大きなガラス戸を開けるときれいに磨かれた木の床となっているので私は思わず靴を脱いだが本当は靴のままでよかったのだ。目の前には斜めにコンクリー トの壁がありその左手から入ったところが会堂の一番後だった。

 黒い木の床と二列に並んだ長椅子が前のほうに階段状に緩やかに下がっていく。ちょうど細長い階段教室の後に立っているようだが、堂内は後壁にある狭く細長いガラ ス窓と右手の斜めの壁が建物の壁と接するところにある縦のガラス窓からの光線のみでほの暗い。ほぼ南方向の正面の壁は中央を縦に天井から床まで細く壁が切り開かれ、また壁中央のやや天井寄りも左右に壁いっぱいに細く切り開かれている。そこからは 外の景色の一部が見えるが、これはまさに大きな光の十字架だった。この前には説教のための机が二つおかれている。堂内にはなんの飾りもなく、グレーの天井と壁、黒い木の床と長椅子によってあくまで静かに落着いた、神と向きあうにふさわしい空間を作り出していた。教会堂の一番低いところに十字架と説教の場所があること、その十字架が光の十字架であることにこの教会堂設計の最大の特色があり、“光の教会” と呼ばれる所以でもあろう。
 
 この茨木春日丘教会の軽込牧師は 「私たちはここに、人間にまで下がり、低く成りたもうたイエス・キリストの象徴を見ます」 といただいた資料の中で語っておられる。 また 「二三人わが名によりて集る所には、我もその中に在るなり」 というキリストの言葉(マタイ伝18-20) を形に表わして欲しいと安藤さんに希望したとも語っておられる。『旧約聖書』 の 「創世記」 冒頭には 「元始(はじめ)に神天地を創造(つくり)たまへり」 「神光あれと言たまひければ光ありき」 とある。

 教会堂とほぼ同じ大きさの集会所は小部屋や二階部分があったりしてやや複雑な構造になっているが斜めに建物を横切るコンクリートの壁と大小の縦長のガラス窓が内部の空間に変化をもたらしている。この二つの建物の内部にある大きな壁はそのまま外に出て大きな外壁となり、折れ曲がって近接する二つの建物を一体化する役割を果たしている。コンクリートの四角い建物の内部に変化をつけるとともに二つの建物を一体化するこの大きなコンクリートの壁の存在、そして光の十字架といった発想こそがこの建築における安藤忠雄の設計の特色を示しているように思われた(写真正面集会所入口、左が教会堂)。 
 
 
 
 
 1989年 4月に竣工したこの教会堂の建築にあたっては、敷地が狭く準備した資金が十分ではないという問題があった。だから設計を引き受けた安藤は「果たしてこの建物は完成するだろうか」「工事を引き受ける建設会社があるだろうか」「現場労働者は集るだろうか」 と心配したそうだが、設計 ・ 施工と教会の多くの関係者の努力によって工事はやや遅れたが見事に完成した。献堂式での挨拶で安藤忠雄は「お金一辺倒の世の中において、人間の心の寄り集まりが、力になっている、ということを教えられました。それが、僕にとって大変記念すべきことであります。人の心が、経済を押しやぶっていくんだ、ということを自分の心に刻んでいきたいと思います」と語り、式後には「この建物には自信をもっているが、礼拝という行為によって自分の願っていた以上の素晴らしさが生まれることを知った」と語っいる。「礼拝することこそが教会を教会たらしめる」とする軽込牧師の思いは、この新しい教会堂を得て実現しつつあるのではないだろうか。 

 建築にとって光をどう扱うかは大きな課題だが、香川県の直島には地下にありながら自然光だけでクロード・モネの絵を鑑賞できる同じく安藤忠雄設計のユニークな地中美術館がある。光の十字架と前下がりの席といったこの光の教会は類例があるのか否か知らないが、神仏にとって特別な意味を持つ光を建築に意図的に取り入れたこのような例が寺院にもはるか昔にあったことを思い出した。そこでその年の秋、淡路島での所用の後久しぶりに播磨の浄土寺に足を運んだ。
 

 
 JR神戸駅に近い神戸電鉄の新開地駅から出る電車は、六甲山地を南から北に突き抜 けるようにトンネルと谷間の景色を繰り返し、やがて播磨平野の東部に出ると加古川に沿った平地を走るようになる。新開地駅から約 1時間、終点粟生(あお)駅の少し手前にある小野駅で電車を降りてさらにタクシーに15分ほど乗るとやっと浄土寺に着く。東から延びてくる微高地の西の端に寺は位置し、昔はいくつもの塔頭寺院が周囲にあったようだが今は田が広がり、現存する塔頭寺院歓喜院 ・ 宝持院がこの由緒のある寺を守っている。私は宝持院の住職にお堂の拝観をお願いした。交通不便なこの寺には特別な日を除けば訪ねて来る人はそんなにはいないからだ。大きくなった稲穂が風に揺れ秋の到来を告げていた。  
 
 
 
 

 広い境内の北寄りには八幡神社の本殿と拝殿が南向きに建ち、その前にある池を挟んで西に浄土堂(阿弥陀堂、国宝、写真)、東に薬師堂(重要文化財)が向き合うように建っている。この二つのお堂は形も大きさも同じようだが、浄土堂は方3間、正方形の平面 で1192(建久3)年に創建された姿を800年以上経つ今日に伝えている(1959年に解体修理 竣工)。薬師堂は方5間、浄土堂とともに建てられたが室町時代の半ばに焼失し、1517 (永正14)年に再建されて今日に至っている。 この二つのお堂を建てたのは俊乗房重源(ちょうげん)上人であるが、上人は、平重衡の南都焼討ちにより失われた東大寺の再建に尽力したことで知られている。大仏殿の前に建つあの大きな南大門がこの再建時の遺構である(大仏殿は16世紀に再び戦火で失われ、江戸時代に再建されて今日に至る)。播磨の小野は当時東大寺の荘園だったので、南無阿弥陀仏と名乗った重源上人が東大寺の別所として浄土寺の建立を発願したのであろう。

 

 中国(宋)に何回も渡り、建築の術にも優れた才能を発揮した重源上人が東大寺の再建にあたり採用したのは大仏様(だいぶつよう。天竺様とも)といわれる宋の新しい建築技術だった。それは細かい細工や煩瑣な装飾を排して部材の規格化をはかることにより巨大な建築の短期間での再建を可能にしたといわれる。浄土寺の浄土堂は巨大な建築とはいえないが、それでも浄土堂(阿弥陀堂)としては破格の大きさであり(1間が20尺だから方3間は一辺約18メートルの正方形)、上人はこれも大仏様で建てたのである。したがってこの浄土堂と東大寺南大門は現存する大仏様の遺構として大変大きな価値をもっていることになる。

 お堂の中に入ってみる。中央の円い須弥壇の上には大きな阿弥陀如来 ・ 観音菩薩 ・ 勢至菩薩の三尊(国宝)が立っておられる。阿弥陀如来は天井を造らずに屋根裏をそのまま見せている(化粧屋根裏)お堂の棟木にまで届こうかという大きさである(丈六の立像、5.3メートル。両菩薩は3.7メートル)。作者は運慶と並んでこの時代を代表する仏師快慶で、上人との縁が深かった。 
 


 
 

 
 仏様(ほとけさま)の前に坐る。それぞれが雲形の台座の上に立っておられるが、よく見ると雲の後部は尻尾のように細くなっている。雲に乗って飛んでくる仏様といえば、臨終にあたって極楽浄土から迎えに来る来迎の阿弥陀三尊だろう。仏像の背後はお堂の西側にあたるが、そこは全面が四角に格子を組んだ透かし蔀(しとみ。戸)になっているので外の景色が見え、明るい光線が入ってくる(写真)。お堂の隅には江戸時代の年号の入った落書きの書かれた縦組の壁板が保存されていた。住職の話によると、解体修理の際に創建当時の姿、即ち現状に戻したのだという。とすればいつの頃か本来開放的だった西側の壁が塞がれて閉鎖的な空間になってしまったことが分かる(この壁板が当初のものでないことは他の壁が横組の壁板であることからも分かる)。しかしご本尊の背後は閉鎖的で暗いのがごく普通だろう。私の知る限りご本尊の後がこんなに開放的で明るい建物はこの浄土堂だけではないかと思う(堂内は撮影禁止なのが残念)。 
 
 もし浄土堂が中国宋代の建築様式に忠実に建てられたならば、日本の伝統的な建築に由来する蔀や床は存在しなかったと考えられる。重源上人はあえて堂内を床とし、西側全面を蔀にすることによって西から射し込む陽光と堂内との一体化を図ったのであろう。季節によって時間は異なるが、太陽が西に傾く頃になると、丹色と白色に塗られた堂内に金箔の阿弥陀三尊像と反射光が一致したときに生れる情景は、まさしく人の心を奪う美しさであろう。西方は阿弥陀如来の極楽浄土とされる。重源上人や仏師快慶をはじめこの寺の建立に関係した多くの人たちの欣求(ごんぐ)浄土の熱烈な思いがここに結晶したといえるかも知れない。浄土寺の山号は極楽山である。この寺を再び訪ねることがあるならば、時間と天候に恵まれてこの荘厳な世界をぜひ体験してみたいものである。

 そもそも光(光明)は仏教にあっては仏の智慧・慈悲を象徴するものであり、仏様は通常背後に光背をいただく。それは仏の持つ光を示すもので浄土寺の三尊のそれはまさに放射する光のようである。光の輝きそのものを仏の名称としたのが毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)で東大寺の大仏はその例である。また阿弥陀如来の名号の一つである無量光仏は計りきれない光明を持つという意味である。

 東大寺の南大門は、縦 ・ 横の構造材と多数の挿肘木が作り出す三角形とがうまく調和して雄大な構造美を作り出し、新しい時代-武士の時代の力強い精神を表現しているともいえよう。では浄土寺の浄土堂(阿弥陀堂)はどうか。藤原氏の時代に浄土教が貴族の間に広まり、それが波及して各地に方3間の阿弥陀堂が建てられるようになったのだが、いずれもそんなに大きなお堂ではなく 1間の長さは 6~9尺くらいが多いよ うに思う。1間が20尺の浄土堂がいかに大きいかわかる。この大きさなら普通は方5間ではないだろうか。このお堂と向き合う薬師堂はそうなっている。もし薬師堂が創建時もそうならば同じような大きさの浄土堂は方3間にこだわったのであろう。しかし装飾性のない大仏様で建てた大きな浄土堂を少し間が抜けたように感じるのは私だけであろうか。小さなお堂は煩瑣な装飾がないほうがすっきりした建物になる。だが小さなお堂では挿肘木を多用する大仏様の特色は発揮できない。

 寺院の建築は後に登場するやはり中国から招来された装飾性の強い禅宗様(唐様 からよう)が主流となり、大仏様は折衷様(唐様 ・ 和様 ・ 大仏様の混用。再建された薬師堂がその例)に部分的に利用されるだけで(例えば木鼻の形など)、大仏様を主とした建築は重源上人一代で終ったかにみえるのは、それが日本人の感性に合わなかったからではないか、と私は思う。もう一つ、堂内の高さと阿弥陀三尊の高さが釣り合わないように感じる。 もしかしたら上人は床のないお堂を当初は考えていたのではないだろうか。そうすれば高さのバランスはとれるだろうが、しかし床からの反射光はなくなる。この浄土堂 についての感想は人によっていろいろあるだろうが、私は重源上人の新しい様式を採用した勇気と革新性に、そして光との一体化を図った独創性に拍手を送りたいと思う。
 

 
  小野駅近くの商店街はたまたま定休日だったからだろうが閑散としており、曲り角に立つ文化4(1807)年の浄土寺への石の道しるべがなにやら寂しげだった。ふたたび神戸に戻った私は、メリケン波止場に大震災の被害をそのまま残したメモリアル・パークを見学して、神戸港の波止場や施設が受けた被害の大きさと復興への人びとの努力を知って自然の力の恐ろしさを改めて感じた。
 
  賑やかな南京町 ・ 三宮センター街を通ってさんちか(地下街)に戻った私は久しぶ りに酒房灘に腰を下ろした。この地下街も震災直後は火の消えたようだったが今は全く新しい街になっている。東京の国鉄や私鉄がまだ改札口で切符を鋏で切っていた頃、私は関西に来る度に阪急電鉄や阪神電鉄が自動改札になっているのに感心したものだった。そんな昔からこの酒房はあった。もう40年になるという。正1合瓶の灘の銘酒 をほとんどそろえている店で今日も賑わっていたが、菊正宗を飲みながらつまんだ蒸し穴子がおいしくてこの日の疲れを癒してくれた。