教会の門を入ると左手に教会堂が建ち奥には集会所が建っているがいずれもコンク リート打ち放しの四角い建物でL字型にならび、その凹部にそれぞれの出入口がある。 教会堂入口の大きなガラス戸を開けるときれいに磨かれた木の床となっているので私は思わず靴を脱いだが本当は靴のままでよかったのだ。目の前には斜めにコンクリー トの壁がありその左手から入ったところが会堂の一番後だった。
黒い木の床と二列に並んだ長椅子が前のほうに階段状に緩やかに下がっていく。ちょうど細長い階段教室の後に立っているようだが、堂内は後壁にある狭く細長いガラ ス窓と右手の斜めの壁が建物の壁と接するところにある縦のガラス窓からの光線のみでほの暗い。ほぼ南方向の正面の壁は中央を縦に天井から床まで細く壁が切り開かれ、また壁中央のやや天井寄りも左右に壁いっぱいに細く切り開かれている。そこからは 外の景色の一部が見えるが、これはまさに大きな光の十字架だった。この前には説教のための机が二つおかれている。堂内にはなんの飾りもなく、グレーの天井と壁、黒い木の床と長椅子によってあくまで静かに落着いた、神と向きあうにふさわしい空間を作り出していた。教会堂の一番低いところに十字架と説教の場所があること、その十字架が光の十字架であることにこの教会堂設計の最大の特色があり、“光の教会” と呼ばれる所以でもあろう。
この茨木春日丘教会の軽込牧師は 「私たちはここに、人間にまで下がり、低く成りたもうたイエス・キリストの象徴を見ます」 といただいた資料の中で語っておられる。 また 「二三人わが名によりて集る所には、我もその中に在るなり」 というキリストの言葉(マタイ伝18-20) を形に表わして欲しいと安藤さんに希望したとも語っておられる。『旧約聖書』 の 「創世記」 冒頭には 「元始(はじめ)に神天地を創造(つくり)たまへり」 「神光あれと言たまひければ光ありき」 とある。
教会堂とほぼ同じ大きさの集会所は小部屋や二階部分があったりしてやや複雑な構造になっているが斜めに建物を横切るコンクリートの壁と大小の縦長のガラス窓が内部の空間に変化をもたらしている。この二つの建物の内部にある大きな壁はそのまま外に出て大きな外壁となり、折れ曲がって近接する二つの建物を一体化する役割を果たしている。コンクリートの四角い建物の内部に変化をつけるとともに二つの建物を一体化するこの大きなコンクリートの壁の存在、そして光の十字架といった発想こそがこの建築における安藤忠雄の設計の特色を示しているように思われた(写真正面集会所入口、左が教会堂)。
建築にとって光をどう扱うかは大きな課題だが、香川県の直島には地下にありながら自然光だけでクロード・モネの絵を鑑賞できる同じく安藤忠雄設計のユニークな地中美術館がある。光の十字架と前下がりの席といったこの光の教会は類例があるのか否か知らないが、神仏にとって特別な意味を持つ光を建築に意図的に取り入れたこのような例が寺院にもはるか昔にあったことを思い出した。そこでその年の秋、淡路島での所用の後久しぶりに播磨の浄土寺に足を運んだ。
広い境内の北寄りには八幡神社の本殿と拝殿が南向きに建ち、その前にある池を挟んで西に浄土堂(阿弥陀堂、国宝、写真)、東に薬師堂(重要文化財)が向き合うように建っている。この二つのお堂は形も大きさも同じようだが、浄土堂は方3間、正方形の平面 で1192(建久3)年に創建された姿を800年以上経つ今日に伝えている(1959年に解体修理 竣工)。薬師堂は方5間、浄土堂とともに建てられたが室町時代の半ばに焼失し、1517 (永正14)年に再建されて今日に至っている。 この二つのお堂を建てたのは俊乗房重源(ちょうげん)上人であるが、上人は、平重衡の南都焼討ちにより失われた東大寺の再建に尽力したことで知られている。大仏殿の前に建つあの大きな南大門がこの再建時の遺構である(大仏殿は16世紀に再び戦火で失われ、江戸時代に再建されて今日に至る)。播磨の小野は当時東大寺の荘園だったので、南無阿弥陀仏と名乗った重源上人が東大寺の別所として浄土寺の建立を発願したのであろう。
中国(宋)に何回も渡り、建築の術にも優れた才能を発揮した重源上人が東大寺の再建にあたり採用したのは大仏様(だいぶつよう。天竺様とも)といわれる宋の新しい建築技術だった。それは細かい細工や煩瑣な装飾を排して部材の規格化をはかることにより巨大な建築の短期間での再建を可能にしたといわれる。浄土寺の浄土堂は巨大な建築とはいえないが、それでも浄土堂(阿弥陀堂)としては破格の大きさであり(1間が20尺だから方3間は一辺約18メートルの正方形)、上人はこれも大仏様で建てたのである。したがってこの浄土堂と東大寺南大門は現存する大仏様の遺構として大変大きな価値をもっていることになる。
お堂の中に入ってみる。中央の円い須弥壇の上には大きな阿弥陀如来 ・ 観音菩薩 ・ 勢至菩薩の三尊(国宝)が立っておられる。阿弥陀如来は天井を造らずに屋根裏をそのまま見せている(化粧屋根裏)お堂の棟木にまで届こうかという大きさである(丈六の立像、5.3メートル。両菩薩は3.7メートル)。作者は運慶と並んでこの時代を代表する仏師快慶で、上人との縁が深かった。
そもそも光(光明)は仏教にあっては仏の智慧・慈悲を象徴するものであり、仏様は通常背後に光背をいただく。それは仏の持つ光を示すもので浄土寺の三尊のそれはまさに放射する光のようである。光の輝きそのものを仏の名称としたのが毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)で東大寺の大仏はその例である。また阿弥陀如来の名号の一つである無量光仏は計りきれない光明を持つという意味である。
東大寺の南大門は、縦 ・ 横の構造材と多数の挿肘木が作り出す三角形とがうまく調和して雄大な構造美を作り出し、新しい時代-武士の時代の力強い精神を表現しているともいえよう。では浄土寺の浄土堂(阿弥陀堂)はどうか。藤原氏の時代に浄土教が貴族の間に広まり、それが波及して各地に方3間の阿弥陀堂が建てられるようになったのだが、いずれもそんなに大きなお堂ではなく 1間の長さは 6~9尺くらいが多いよ うに思う。1間が20尺の浄土堂がいかに大きいかわかる。この大きさなら普通は方5間ではないだろうか。このお堂と向き合う薬師堂はそうなっている。もし薬師堂が創建時もそうならば同じような大きさの浄土堂は方3間にこだわったのであろう。しかし装飾性のない大仏様で建てた大きな浄土堂を少し間が抜けたように感じるのは私だけであろうか。小さなお堂は煩瑣な装飾がないほうがすっきりした建物になる。だが小さなお堂では挿肘木を多用する大仏様の特色は発揮できない。
寺院の建築は後に登場するやはり中国から招来された装飾性の強い禅宗様(唐様 からよう)が主流となり、大仏様は折衷様(唐様 ・ 和様 ・ 大仏様の混用。再建された薬師堂がその例)に部分的に利用されるだけで(例えば木鼻の形など)、大仏様を主とした建築は重源上人一代で終ったかにみえるのは、それが日本人の感性に合わなかったからではないか、と私は思う。もう一つ、堂内の高さと阿弥陀三尊の高さが釣り合わないように感じる。 もしかしたら上人は床のないお堂を当初は考えていたのではないだろうか。そうすれば高さのバランスはとれるだろうが、しかし床からの反射光はなくなる。この浄土堂 についての感想は人によっていろいろあるだろうが、私は重源上人の新しい様式を採用した勇気と革新性に、そして光との一体化を図った独創性に拍手を送りたいと思う。