4月13日は貧窮と病気に苦しんだ石川啄木が1912 明治45年に亡くなって105年の命日にあたる。 僅か26歳で死んだ青年が遺したものは歴史の彼方に忘れ去ってしまうことのできない輝きを今なお放っていると私には思える。晩年の啄木の東京での生活を辿ってみた。
 

 
 1908 明治41年 4月、石川啄木は1年間の北海道生活に決別する決心をして釧路を後にし、函館から船で東京に向かった。親友宮崎郁雨の好意に甘えて妻子を函館に残し、東京での小説家としての生活の確立を願った啄木には前に進むしかない文字通りの背水の思いだった。

 この年の2冊目の日記の冒頭の部分を読むと、こうした啄木の思いが伝わってくる。
 
「過ぎ去った事、殊にも津軽の海を越えて以来、函館 札幌 小樽 釧路と流れ歩いて暮 した一ヶ年の事が、マザマザと目に浮ぶ。自分一人を頼りの老いたる母の心、若い妻の心、しみじみと思遣って遣瀬もなく悲しい。目を瞑ると京子の可愛らしい顔が目に浮ぶ。
 漂泊の一年間、モ一度東京へ行って、自分の文学的運命を極度まで試験せねばならぬといふのが其最後の結論であった。我を忘れむと酒に赴いた釧路の七旬の浅間しさ!満足といふものは、所詮我自らの心に求むべきものだといふ悲しい覚醒は、創作的生活の外に自分のなすべき事が無いと覚悟せしめた。此覚悟を抱いて、自分は釧路を逃げ出した!さうだ、逃げ出した!」
 
 それにしても陸路ではなくてなぜ時間のかかる海路だったのだろうか。青森から鉄道で故郷の渋民や盛岡を通ることに耐えられなかったのだろうか。

 4月27日に横浜に上陸した啄木は、翌日には千駄ヶ谷の与謝野寛・晶子夫妻宅(新詩社)を訪ねて東京での生活が始まった。
 

 
赤 心 館 (文京区本郷  5-5-6) 

 啄木が東京で頼りにしたのは金田一京助だった。盛岡中学以来の文学をともに語ることのできる先輩であり、とても面倒見がよかった。啄木はどれだけ助けられたかわからない。「金田一君といふ人は、世界に唯一人の人である。かくも優しい情を持った人、かくも浄らかな情を持った人、かくもなつかしい人、決して世に二人とあるべきで無い。若し予が女であったら、屹度この人を恋したであらうと考へた」 とまで日記 に書いている(5月6日)

 啄木が東京での生活の拠点にしたのはこの金田一が生活していた本郷菊坂町の赤心館という下宿屋だった。2階の部屋だったが、「机も椅子も金田一君の情、桐の箪笥は宿のもの。六畳間で、窓をひらけば、手も届く許りの所に、青竹の数株と公孫樹の若樹。浅い緑の色の心地よさ。晴れた日で、見あぐる初夏の空の暢やかに、云ふに云はれぬ嬉しさを覚えた。殆んど一日金田一君と話す」 「京に入って初めて一人寝た。“自分の室” に寝た。安々と夢路に入る」 と安堵と喜びの思いを書いている(5月5日)。 しかし、それは東京での苦難の生活の始まりだった。
 
 夏の暑い日に赤心館のあった場所を訪ねた。本郷3丁目交差点近くの新井理髪店 (喜之床、「東京の石川啄木 2」 参照) 前の広い道(言問通)を渡って真直ぐ本郷小学校前の坂道を下ると菊坂通に出る。そこを横切って今度は坂を登る。本妙寺坂といい近くに振袖火事(明暦の大火、1657年)の火元になったので知られた本妙寺があった(今はない)。坂を登ると右側にプラウド本郷というマンションがあり、この建物の壁には、啄木の 「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて蟹とたはむる」 の歌をはじめこの土地に縁のあった何人かの文学者の詩歌を刻んだ銅板が何枚も張ってある。この少し先を左に曲がると突当りが長泉寺で、その手前左に赤心館跡の説明板が立っていた。 
 
 

  説明板の立つ道の端は切立った崖の上で、目の前は会社の建物の 2階にあたる。こ の会社はオルガノといって菊坂通に門があり広い敷地に建物が連なっている。現在の地形から考えてみるに、門の方から敷地を広げてきた会社が、最後は道の縁(へり) まで崖を削って建物を建てたと思われる。だから昔赤心館の建っていた土地は今は切 り崩されてしまってもう跡形もないということになるのだろう。吉田孤羊の 『決定版 啄木写真帖』(昭和29年)に掲載されている立派な玄関のある 2階建の赤心館の写真は、このような考えを裏付けてくれるようだ。

 すぐ近くには本郷菊富士ホテル跡の記念碑がある。後に有名になった文士などが滞在したり出入りしたので知られたホテルだがこちらも跡形もない。啄木が赤心館に滞在していた頃にはすでにあったのだが(当時は下宿菊富士楼)日記には登場しないので、このホテルに出入りする人たちと啄木とはほとんど交渉がなかったのであろう。 東京に来て啄木が親しくしたのは与謝野夫妻と新詩社の仲間たちだった。菊富士ホテルは昭和20年の東京大空襲で焼失したので、赤心館もその時まであったとすればおそらく同じ大空襲で焼失したのであろう。

 赤心館は学生を相手にした小さな下宿で、学生でもなく定職もない啄木が滞在できたのはすでに何年も滞在して信用されていた金田一のおかげだった。当時の様子について 「菊坂町時代の思出から」(昭和 7年、『定本 石川啄木』 所収)に金田一が次のように書いている。
 
 「一体菊坂町の下宿の赤心館といふのは、当時は本妙寺の境内で、菊富士楼の隣りの二階建の十二三室しかない小さな下宿だった。主人公は、森鴎外さんや中村吉蔵氏などと共に、石州津和野の藩士とかいふことで、固い、寧ろ固過ぎて、融通のきかないやうな人だった。当時は、何処か商会へ勤めてゐて、下宿の方は専ら主婦さんが経営してゐるのだった。(中略)私などは赤門の一年目から茲に世話になって、卒業後までも居ることであるし、それに、毎月勘定はきちんとする方だったから、信用のある部だった。
         
 石川君は、私を頼って来て、始めは私の室に同居してゐたが、同居では、話しばかりして、お互ひに何にも出来ない。此ではよくないとわかって、二階の端の室 へ私の椅子テーブルを持って引越したのであったが、段々夜更かしはするし、朝 は、飯が全部済んでからのそのそ起きて来る。仕舞には寧ろ夜起きて居て、朝があけてから寝るので大抵昼飯を朝飯といっしょにする、といふ様な、此処の宿では殆んど類のない不規則な下宿人だった。それに、何処へ勤めるといふのでは無 し、ぶらりぶらりしてゐて、勘定が出来ないといふのであったから、大分主婦の神経をいらだたせたものだった。」
 
 当時の文学界は、島崎藤村が 「破戒」(明治39年)を、田山花袋が 「蒲団」(明治 40年)を発表して以降自然主義を巡る論議が活発だった。詩歌においては 『明星』 の ロマン主義の退潮が決定的だった(明治41年廃刊)。そして夏目漱石・森鴎外が独自の文学活動を展開していた。

 「予は自然主義を是認するけれども、自然主義者ではない」 「自然主義は、今第一期の破壊時代の塵を洗って、第二期の建設時代に入らむとして居るだけだ。此時期の後半になって、初めて新ロマンチシズムが芽を吹くであらう」 「短篇よりは長篇を書きたい。長篇を書いては、書ききれぬうちに飢ゆるであらうと云ふ心配がある。早く何らか下宿料を得る途がつけばよいがと考へる」(5月8日) と日記に書く啄木であった。

 啄木は小説を書く努力をした。毎日のように原稿用紙に向かい、書き上げると伝(つて)を求めては雑誌社などに原稿を渡したが大抵は返ってきた。詩歌の世界ではとも かく小説の世界では石川啄木は実績のない一人の若者にすぎなかった。世間はそう甘 くなかった。書いても書いても金にならず、下宿料はおろか原稿用紙すら買えなくな るような始末だった。

 こうした苦境の中で、第一義的には考えていなかった短歌がまるで涙がとめどもなく流れるように生れてくる夜があった。「昨夜枕についてから歌を作り初めたが、興が刻一刻に熾んになって来て、遂々に徹夜。夜があけて、本妙寺の墓地を散歩して来た。 たとへるものもなく心地がすがすがしい。興はまだつづいて、午前十一時頃まで作ったもの、昨夜百二十首の余」(6月24日)、「頭がすっかり歌になってゐる。何を見ても何を聞いても皆歌だ。この日夜の二時までに百四十一首作った。父母のことを歌ふ歌約四十首、泣きながら」(6月25日)。この時生れた歌の中には、「東海の小島の磯の白砂に我泣きぬれて蟹と戯る」 「たはむれに母を背負ひてその余り軽きに泣きて三歩 あるかず」 といった、後によく知られるようになった歌がいくつも含まれている。

 金田一京助の友情に支えられて小説を書き続けた啄木だったが、7月になると厳しい下宿料の催促もあり絶望的になっていった。「死場所を見つけねばならぬといふ考が、親孝行をしたいといふ哀しい希望と共に、今の自分の頭を石の如く重く圧してゐる。 静かに考へうる境遇、そして親を養ふことの出来る境遇、今望む所はただそれだ」(7 月19日)、「自分はすべて、一切、ありとあらゆるものが、苦痛だ。自分自身が苦痛だ」(7月23日)、「電車で春日町まで来て、広い坂をテクテク上ると、また汗が出た。 電車が一台、勢ひよく坂を下って来た。ハット自分は其前に飛込みたくなった」(7月 27日)といった文字が日記のアチコチに見られる。

 啄木は下宿料を工面するために友人・知人を訪ねて東京の町をまるで彷徨するように歩き回るがうまくいかない。見かねた金田一が下宿と交渉して当面の解決をした。 「宿では金田一君から話してくれたので、今後予に対して決して催促せぬと云ったと いふ。友の好意!そして十六円出してこれを宿に払ひなさいと!」(7月28日)
 

 
蓋平館別荘 (文京区本郷  6-10-12)

 啄木の下宿料問題が小康を得たのも束の間で、関連して今度は金田一と下宿との間に諍いがおきて、憤慨した金田一は所蔵する文学関係の本をまとめて古本屋に処分して金を作り一存で新しい下宿を探して啄木と一緒に引越すことにした。金田一の先の文章にその様子が書かれている。
 
 「台町から森川町・弥生町をぐるぐる見て歩いて、最後に、森川町の新坂上へさしかかって、建ったばかりの様な、真新しい堂々たる石門の下宿を見上げながら、 どんな人達がこんな所に居るのだらうと、足を留めて振返った。見るだけなら差支がなからうと、思ひ切って入って見た。三階なら空いて居ると、案内されて上って見たが、思ひも寄らず空橋下通りの谷を隔てて、西片町の阿部伯爵のお屋敷を正面に、ただ見る鬱蒼たる森の眺め、其れがすっかり気に入ってしまった。(中略)

 見せて貰へた室は、梯子段を上ってすぐの、夜具部屋などにしてゐた西向の二畳半だった。が、西の方小石川から神田へつづく甍の海、遥かに九段の鳥居から、靖国神社の森が見え、その上へ、嬉しや九月の蒼空に、くっきりと晴れた初秋の富士が全容をあらはして絵の様に浮んでゐた。それで室代が四円だといふから、では、石川君に取っては今迄通りだから、何も差支が無い。よし、此れにしようと、早速宿へ戻り、石川君の室へ行って見たがまだ寝てゐた。(中略)

  (啄木を起して新しい下宿に案内すると) 「これあいい。まるで僕を置くに造っ たやうな室だ」 といひながら、窓をあけて見て二度びっくり、富士の山容と甍の海を臨んで唸る程気に入り大喜びでそこを出て 「自分も此からは気をよくして本当に精進する。新しく第一歩を二人が踏み出すんだ」 といふ。」(二畳半は三畳半の誤り)
 
 なお、下宿の名称は、主人が日清戦争に従軍して中国の蓋平で殊勲をたてて金鵄勲章をもらったのを記念して蓋平館とつけ、この建物は湯島の金持が建てたのを引継いで下宿兼旅館として経営していたが本店より立派なので支店ではなく別荘と呼ぶことにしたそうだ。

 二人がこの新しい下宿に引越したのは1908 明治41年 9月 6日で、三畳半の部屋に啄木が移ったのは 8日だった。この日の啄木の日記には、「九番の室に移る。珍 な間取の三畳半、称して三階の穴といふ。眼下一望の甍の谷を隔てて、杳かに小石川 の高台に相対してゐる。左手に砲兵工廠の大煙突が三本、断間なく吐く黒煙が怎やら勇ましい。晴れた日には富士が真向に見えると女中が語った。西に向いてるのだ」 と書いてある。そして日記には 「九号室の眺」 というスケッチが描かれている。

 西向きの部屋は西日が入ってあまり良い部屋とはいえないが、高台に建つ家の3階 だから眺めだけは抜群で気分はよかったろう。後年出版した歌集 『一握の砂』 の 「秋風のこころよさに」 は 「明治四十一年秋の紀念なり」 と添書きされているが、そこには、「あめつちに/わが悲しみと月光と/あまねき秋の夜となれりけり」 「秋の空廓寥 として影もなし/あまりにさびし/烏など飛べ」 といったこの部屋からの眺めを思わせる歌がある。 
 
 
 
 蓋平館別荘はこれまでの赤心館からは台地の上の平坦な道を歩いて10分位の距離だが、電車に乗って訪ねてくる人は市電を春日町で降りて北へ少し歩き右折して急な坂道(新坂)を登ることになる。下宿は坂の上にせり出すように建っていたが、『啄木写真帖』 でその実に堂々とした木造 3階建の姿を見ることが出来る。この建物は戦後まで健在で、野田宇太郎は 『新東京文学散歩』(昭和27年)に 「今もなほ昔のままの形で新坂上の道の右側の崖上に大きな三階建の家を辺りの家並からひときは高くせり出してゐるのである。太栄館と云ふ観光旅館が、その新しい名前である。最近修繕されて家が新しく堂々と美しくなってゐるが、内容にはあまり変りはない。啄木はその三階の三畳半の部屋にゐた」 と書いている。『啄木写真帖』 にはこの部屋の写真も載っている。この辺りには東京に修学旅行に来た学校が利用する旅館がいくつもあり、蓋平館別荘もその一つになっていた。だがこの貴重な建物は1954 昭和29年に失火で焼けてしまった。今も同じ場所に新しい建物を建てて旅館を営業しているが啄木との縁を示すのは玄関前の歌碑だけとなってしまった。歌碑には 「石川啄木由縁の宿  東海の小島の磯の白砂に我泣きぬれて蟹とたはむる」 と彫ってあった。
 
 
 
 新しい下宿に移った啄木は相変らずの借金と質屋通いの生活だったが、それでも運が良い方向に向かってきた。書いても書いても売れなかった小説だったが、「東京毎日新聞」 に小説を連載することが決った。翌42年 3月には東京朝日新聞社に校正係として入社し月給25円を得ることになってやっと生活の基盤が出来た。

 小説家としての実績のない啄木が新聞に小説を連載することが出来たのは、雑誌 『明星』 の関係者に新聞社の社員がいたことと、新聞社の事情と社主の決断によるといわれる。明治41年11月 1日から12月30日まで連載した 「鳥影
(ちょうえい)」 がそれで、原稿料は 1回分が 1円、11月30日には 「三十円-最初の原稿料、上京以来初めての収入-を受取り、編輯長に逢ひ、また俥で牛込に北原君をとひ、かりた二円五十銭のうち一円五十銭払ひ、快談して帰った。宿へ二十円、女中共へ二円」(日記)とその喜びも束の間、お金は右から左へと出ていき手元に残ったのは僅かだった。しかし、その夜は金田一と街に出て天麩羅屋で大いに気焔を上げた啄木だった。

 朝日新聞社への入社も好運としか言いようがない。初めて啄木にあった編集部長佐藤北江
(真一)の判断で入社が内定した。2月24日の日記に啄木は入社決定の喜びを記した。
 
 「記憶すべき日、 夜七時頃、おそくなった夕飯に不平を起しながら晩餐をくってると朝日の佐藤真 一氏から手紙、とる手おそしと開いてみると二十五円外に夜勤一夜一円づゝ、都合三十円以上で東朝の校正に入らぬかとの文面、早速承諾の返事出して、北原へかけつけると、大によろこんでくれて黒ビールのお祝、十時頃陶然として帰って来た。 これで予の東京生活の基礎が出来た!暗き十ヶ月の後の今夜のビールはうまかった。」
 
 この頃、森鴎外邸で行なわれた歌会に出ていた若い詩人や歌人を中心に新しい文芸誌 『スバル』 が明治42年 1月に創刊された。当初の発行名義人は石川啄木で、第 2号の編集責任者でもあった。そのため蓋平館別荘のあの狭い部屋にはスバルの関係者がしばしば急な坂を登り下りして出入りすることとなった。だから野田宇太郎はこの坂を 「スバルの坂」 と名づけたいといっている。

  ところが、明治42年の 4月から 6月にかけて(大半は 4月)啄木の日記は突然ローマ字によって書かれるようになった。何故か?「妻に読ませたくないからだ」 と書 いている(以下引用は日本字による)。その真意はともかく、この日記には当時の啄木 の行動と心境が赤裸々に書かれていることでよく知られている。そこに窺われるのは家族への責任の重さ、生活の経済的な展望が見られないことから来る絶望感、刹那的な歓楽への逃避といった暗い現実の姿だった。

 朝日新聞社の社員となって一定の収入が保証されたにもかかわらず何故なのだろう か。啄木の日記を読んでいるとその理由が見えてくる。例えば、3月から朝日新聞社に出勤するその時点での下宿料の滞納額は100円余、勤めて10日目には25円前借して下宿に20円支払っている。25日の月給日に25円もらっても一目見ただけで全額 を返済にあてている。したがって次の一ヶ月は生活費ゼロから始めなければならない。 また借金だ。啄木の抱えていた借金は下宿料のほかにもいろいろとあった。

 いくら働いても借金地獄から抜け出ることの出来ない現実。遠い函館で経済的にも精神的にも限界を越えていた家族を呼ばなくてはという責任感。「予の生活の基礎は出来た、ただ下宿をひき払う金と、家を持つ金と、それから家族を呼び寄せる旅費!それだけあればよい!こう書いた。そして死にたくなった」(4月16日)。この金を準備する可能性はこのときの啄木にはゼロと言ってよかった。さしずめ現代ならばいったん自己破産して再出発するということもあるのかも知れないが、啄木の時代にはそれもかなわなかった。 
(「東京の石川啄木」 2 に続く)
 

 
 銀座に建つ歌碑
 
 
 
 石川啄木が勤めた朝日新聞社が建っていた銀座に小さな歌碑が建っている(中央区銀座6-6)。並木通 りの歩道と車道の境界に2本のパイプに護られるかのようにビルのほうを向いている。 目の前のビルは外壁が黒くてとても幅の広い大きなビルだ。一階はいくつかに区切られて店や会社が入っているが朝日ビルと入口に書いてあった。『啄木写真帖』 にある新聞社の建物もずいぶん幅のある大きなものだったことを思い出した。昔社屋のあったこの土地はおそらく今も新聞社のものなのだろう。
 
   歌碑は、啄木の顔のレリーフの下に 「京橋の瀧山町の/新聞社/灯ともる頃のいそがしさかな」 の歌が活字体で彫られている。その下にはこの場所と啄木との縁について書いた啄木研究の第一人者岩城之徳の文がある。歌碑の文字は、歌集 『一握の砂』 初版本の活字を拡大したとのことだ。碑の裏には上の方にキツツキ(啄木鳥)の彫物があり、下の方には町名 「京橋と瀧山町」 の由来について書いてある。この歌碑は1973 昭和48年 4月に 「銀座の人」 が建てた。碑には、啄木没後満60年とあるが実は61年である。この碑はよく見るとどうも石ではないと思い叩いてみたら金属で中が空洞の音がした。歌碑としては大変ユニークで、なにやら大都会の街角に小さくなって佇んでいるといった趣だった。

 校正係としての勤務は午後 1時から6時と決められていた。新聞が一応出来てからの仕事だから朝からというわけにはいかないのだろうが、小説を書いたり出かけたりして夜の遅くなりやすい啄木には好都合な勤務時間だったろう。 日記を読むと啄木は仕事をけっこう休んでいるのであまり真面目な社員とはいえないが、なぜか新聞社は啄木の才能を生かす機会を与えてくれた。新聞に短歌投稿欄(朝日歌壇)を復活して啄木を選者に抜擢した。また当時編集の進んでいた 『二葉亭全集』 の校正を任されもした。啄木の才能を見抜いた人物が居たわけで、後年歌集 『一握の砂』 を上梓した時にユニークな緒言を寄せた藪野椋十は新聞社の社会部長渋川玄耳(柳次郎)だった。 啄木の葬儀が浅草の寺で行なわれた時、少ない会葬者の中で目立ったのは朝日新聞社の関係者であり、夏目漱石の姿であった。当時の漱石は朝日の社員として小説の執筆に専念していた。啄木にとって朝日新聞社との縁は生活の糧を得ること以上のものをもたらしたといえよう。
 
 

 今はない凌雲閣がどこに建っていたのか知りたくて浅草に出かけた。 この建物は1890 明治23年11月に開業した八角形12階の建物で、10階まではレ ンガ積み、11・12階は木造で、8階までは日本最初の昇降装置があった(イギリス人 の設計)。すぐそばには瓢箪池があり、『啄木写真帖』 にはこの池に姿を映す凌雲閣の写真がある。明治17年にこの辺りの低地(浅草田圃)の一部を掘って池を造り、その土で周辺の低地を埋め立てて繁華街(六区)を造ったという。やがて芝居小屋や映画館が軒を連ねる浅草随一の繁華街に発展するのだが、それは啄木没後のことかも知 れない。

 明治41年 8月、金田一とここに出かけたことが日記に書かれている。
 
「夜、金田一君と共に浅草に遊ぶ。蓋し同君嘗て凌雲閣に登り、閣下の伏魔殿の在る所を知りしを以てなり。
キネオラマなるものを見る。ナイヤガラの大瀑布、水勢トウトウとして涼気起る。 既にして雷雨あり。晴れて夕となり、殷紅の雲瀑上に懸る。月出でて河上の層楼 窓毎に燈火を点ず。児戯に似て然も猶快を覚ゆ。
凌雲閣の北、細路紛糾、広大なる迷宮あり、此処に住むものは皆女なり、若き女なり、家々御神燈を掲げ、行人を見て、頻に挑む。或は簾の中より、鼠泣するあ り、声をかくるあり、最も甚だしきに至っては、路上に客を擁して無理無体に屋内に拉し去る。歩一歩、“チョイト” “様子の好い方” “チョイト、チョイト、学生さん” “寄ってらっしゃいな”
塔下苑と名づく。蓋しくはこれ地上の仙境なり。
十時過ぐるまで艶声の間に杖をひきて帰り来る。」
 
 やがて啄木はこの塔下苑にのめりこんで一時の歓に出口の見えない苦悩をいっとき忘れようとし、その体験を 「ローマ字日記」 に赤裸々に記したのであった。 凌雲閣があったところは遊園地花屋敷の辺りと見当をつけて探したがよく分からない。大正12(1923)年の関東大震災で崩壊した後解体されてからもう100年近くになるのだから無理もない。瓢箪池も跡形もない。六区の北の端でやっと説明板を見つけたのは大きな建物ウィンズ(場外馬券売場)が建つ一角だった(写真上、浅草 2-8-5)。そこは浅草ビューホテル(昔国際劇場があった場所)の前の大通りを渡った辺りになる。

 

 


 

 啄木が遊んだ場所がだいたい分かったが、当然のことながら周辺には 「塔下苑」 の雰囲気はまったく残っていない。啄木と同年輩の高村光太郎が、「八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ」 で始まる長詩 「米久の晩餐」 で店の賑わいを表現した牛鍋屋米久(よねきゅう)が今も 「塔下苑」 のあった近くで 「百年の老舗」 の看板を出して営業しているのが(ひさご通り)、啄木の昔に思いをつなげてくれる唯一の手がかりのよ うだ。
 

 
  東京の啄木の苦悩は函館の家族には十分には分からなかったであろう。逆に家族の苦悩は啄木には十分に理解できなかったのではないか。啄木が朝日新聞社に職を得ると家族は一日も早い上京を願った。逡巡する啄木をよそに6月になると宮崎郁雨の援助をうけて家族が上京することが決まり、仕方なく狭い下宿を出て近くの喜之床 2階 の貸間に移ることになった。滞納していた下宿料100円余は毎月10円返すというまず不可能な約束だった。一緒に住むことになった啄木一家にさらに肺結核という病魔が襲うことになる。

 明治の末期、明治40年代の日本は日露戦争勝利の栄光にもかかわらず危機に直面 していた。石川啄木は一家の苦境に押潰されそうな情況の中でなお、いや、だからこそ日本の現実を直視してその改革の可能性を必死に模索し、書き続けたのではないだろうか。深刻な苦悩にめげることなく考え、書くことに背を向けなかった啄木が残した短歌・詩・小説・評論などが今も輝きを失っていないことに驚くことは、実は真に悲しむべきことなのだろう。

 いささか本稿の主題からはそれたが、東京の啄木の遺跡を巡ることで、あらためて夭折した明治の青年石川啄木の苦悩と残されたものの大きく深いことに思いをいたしたのであった。