東西に長い東京都を西に向かう鉄道がJR中央本線だが、その立川駅から北西に奥多摩の山並みを縫うように多摩川に沿って走るJR青梅線は奥多摩駅で終点となる。 駅前の観光案内所には近辺のハイキングやウォーキングの簡単な地図が準備されている。ウォーキングは大半が昔の道を歩くコースだがなかでも一番長くてしかも魅力的 なのは昔の青梅街道を辿る  “奥多摩むかし道”   であろう。

 いま自動車が行き来する青梅街道(国道411号)は、小河内(おごうち)ダムで出来た奥多摩湖の縁を通り丹波山を経て柳沢峠を越え山梨県の塩山に至る。しかし、湖底となった谷間でかつて暮していた小河内村の人々は難所の多かった氷川(奥多摩駅周辺)への道よりも、山を越えて五日市に向かう道のほうを利用していたそうだ。この氷川への道が、わりと平坦な山腹を縫う道に改修されたのは明治になってからで、それからは人の往来もこの道が主となり小河内の木炭の生産が飛躍的に増加したと伝えている。

 これから歩くのはこのむかし道で、小河内・氷川間約 10km の自動車の殆ど通らない自然と昔の生活と小河内ダム建設の歴史が絡みあった、しかも最後にサプライズが待っている魅力的なウォーキングである。
 

 
 
 
 もうだいぶ昔のこととなるが青葉の 6月、梅雨に入る少し前に友人とこのむかし道を歩いた。駅を出るとすぐ多摩川と日原川の合流点に出るが、大氷川橋からのぞくとはるか下に川の水面が光っていた。橋を渡って右に日原(にっぱら)への道を分けてしばらく行くと曲り角にむかし道の案内板 が立っている。むかし道は羽黒三田神社の前の羽黒坂から始まる。急な狭い坂道に樹木が覆いかぶさってむかし道の雰囲気が濃厚に漂い嬉しい気分になる。
 
 しばらく行く と今は使っていない線路を横切る。右を見るとトンネルの入口が見え(進入禁止)、左は草の中に線路が消えてやがて橋を渡っていくのが少し先に行くと眺められる。これはダム建設のために資材を運んだ鉄道の跡だが、こうした眺めは歩く人の懐旧の思いを 一層深めるのに効果的だ。この鉄道跡と絡み合うようにむかし道は続いていくのだが、最初から演出効果満点のスタートといえよう。道はおおかた左に多摩川を眺め、右は崖が続く。花は咲いていないが緑の木の葉が重なり、時々はウグイスの鳴き声も聞かれる静かなむかし道をのんびりと歩いていくのは気持がいい。少し先を若い女性が二人おしゃべりしながら軽い足取りで行くが、平日のせいか歩いている人はあまりいない。
 
 
 
 
 小さな沢を渡ってさらにひと登りすると大きなサイカチの木が茂る休憩所に着く。道の端に立つ正徳 2(1712)年の念仏供養塔がこの道の古さを示している。ここはこの道を行く人たちの休み場として賑わったそうだ。だいぶ下に多摩川が流れその向うに自動車の走る道が遠く見える。ここからはきつい登りもなくのんびりと歩いていくとやがて檜村(ひむら)の集落に着く。
 
 南に開けた眺めのいいところで一息いれる。ここからはいったん国道のそばに下って大きく屈曲する多摩川に沿った旧道を歩き、境の集落に来ると今度は家のはるか上に鉄橋を見ることが出来た。家の人たちは資材を積んだ列車が橋を渡っていくのをどんな思いで眺めたことだろう(写真)。再び少し登ると平坦な山道となりその静かな雰囲気がとてもよい。やがて社殿の上にのしかかるように巨岩が聳えている白髭神社の前に着いた。説明板によると、岩は石灰岩で大昔にできた断層面が露出している大変珍しい例でこの巨岩がご神体だそうだ(写真)。 
 
 
 
 
 国道が白髭トンネルを出た梅久保から惣岳まではむかし道は国道と並行してすぐ近 くを通り遠くに鉄道の橋が見えたりする。道沿いにはポツポツと家が建ち、冬に備えてだろうか薪が山と積まれていたりする。なかには廃屋となっているものもあるが人の生活の匂いがほのかに漂う道もまたよいものだ。惣岳には明治の頃に勧請したという成田不動尊が祀られているが、先の白髭神社やむかし道の所々に祀られている石の耳神様・縁結び地蔵・馬頭観音・牛頭観音・虫歯地蔵といった神仏もまたかつてこの道でつながった多くの人々の思いを感じさせてくれる。
 
  
 
 
 惣岳を過ぎるとしっかりしたシダクラ吊橋があり、橋の中央から初めて多摩川をまぢかに眺めることが出来た。川下方向の渓谷は、江戸時代や明治時代の大水害でシダクラ谷から押し出された岩石で出来たものといわれる(写真)。それにしてもこの吊橋を渡った人は何処へ行くのだろう。地 図をみても人家がありそうもないし道は何処にも通じていない。山仕事のために作られたのだろうか。  
 
 馬の水のみ場を過ぎると道所(どうどころ)に着く。もうだいぶダムに近づいてきたがここは土地 が少し開けて明るい場所だ。馬の水のみ場はコンクリートの水槽だが 「東京府馬匹畜産組合」 と右横書きに彫られている。昔は近くの茶店で一服する馬方衆で賑わったこ とだろう。ここ道所にはかつて氷川小学校の分校があった。消防の施設になっている小さな広場がおそらくその跡で、子供達の元気な声が聞かれた時代もあったのだと思いながらベンチに腰を下ろした。
 
 近くにある川合玉堂の歌碑には、「山の上のはなれ小むらの名を聞かむ やかてわか世をこゝにへぬへく」 と黒御影石に刻まれ、「明治三十六年奥多摩中山郷附近にてよみし旧作をしるす 玉堂」 と添書きされていた。川合玉堂は晩年に御岳駅の近くにアトリエを構えて奥多摩の風物を愛した日本画家である。
 

 
 実は私がこのコースを歩くのはこの時が2回目で、最初のときもこの道所で休みダムの方の山腹高くにある中山の集落を眺めながら、「あんな高いところに住むのは大変だろうな」 などと思ったものだった。まさかあんな高いところまでこれから登ることになろうとは露知らずに。 腰をあげてダムに向かうとすぐに二つ目の吊橋があり、橋の上からは山の上にある中山集落がよく見える。道はやがて国道から分かれてダムの下に向かう道路に出る。 
 
   ダムが造られる前はおそらくむかし道はこのまま川に沿ってそれほどの起伏もなく小河内村に向かったのだろう。それが昔の青梅街道だったが、いまはダムがあり村は湖底に沈んでしまった。ダムの上が終点のむかし道は、そこでダムよりもはるかに高い中山・ 水根の集落を通る山道を歩いていくことになったのであろう。昔の人の苦労を少しは味わうために。

 むかし道のフィナーレはちょっとした山登りだった。地図をみると道所と中山の標高差は約 200m ある。平地と違って一気に登る山の 200m はけっこうきびしいものだ。大汗をかいて登った中山からはさっき休んだ道所が下の方に小さく見えた。家の周りの急斜面に作られた小さな畑には柵が作ってある。猪か鹿の被害を防ぐためだろう。 こんな山の上にも国道から小さな車が通れる道が出来ていた。浅間神社を回りこむと ダムを見下ろす素晴らしい眺めが待っていた。この眺めをプレゼントするために考えたコースなのだろうか。水根の集落へはいったん小さな沢に下ってからまた登り直す。 途中に 「落石注意」 のガレ場があったが、これが 2回目のサプライズの原因となった。前年の 4月にここが崩落して通行不能となりむかし道はやむなく別のルートをとることとなったからである。 
 
   
 
 
 この時ダム下への道へ出た私たちは、通行禁止の中山への道を通り過ぎてトンネルを潜り国道に出た。そこは中山トンネルの入口で、国道を横断して少し行き廃線跡の上に出ると目の前には鉄道のトンネルが口をあけていた。少しカーブしているので出口は見えないがずいぶん長そうなことが分かる。トンネルは 440m だそうだが歩くともっと長く感じる。壁には電球が一列にぶら下がって線路のあるトンネル内はほんのりと明るく、天井からは地下水があちこちで落ちてくる。一人ではちょっと無気味だろう。むかし道の終りに、これまで眺めるだけだった廃線跡を実際に歩くことの出来るこのトンネルとの出会いは相当に印象的だ。それに中山まで登るよりはだいぶ楽だ。

     山の木々が明るく見えるトンネルの出口からは水根への急な登りが待っていた。途中で崩落場所を通ってくる中山からの道を合わせて水根の集落に着いた。中山とほぼ同じ標高で目の下に奥多摩湖を眺めることが出来た。不動明王を祀った修験者の草葺の家を回るように家の間を抜けるとやがて水根沢の遊歩道に出る。もう水根ロータリ ーを経て小河内ダムの広場へはわずかの距離だった。

 冷たい缶ビールで一息入れた私はダム湖の奥を眺めた。少し遠くに右から半島のように突き出ているのが熱海で、その先が鶴の湯温泉の湧く湯場にあたる。もちろん昔はもっと下の山裾に位置していたわけだ。竣工当時は水道専用貯水池として世界最大の規模だったダム建設の苦心もさることながら、湖面を眺める私はこの湖底に沈んだ小河内村の人たちのことを考えずにはいられなかった。ダムの建設にあたり、小河内村の 600 戸 3000 人、山梨県丹波山村・小菅村と合わせて 945 戸が移転を余儀なくされ、 小河内村はその大部分が水没した。広場には大きな記念碑が立ち、立派な水と緑のふれあい館の周りには小河内村から集められたのであろうかいくつもの石仏・石塔が寂 しげに立っていた。
 

 
  多摩川にダムを造って発展する東京の上水道を確保しようとする動きは1926(大正 15)年に始まるが、小河内村が貯水池の建設に賛成したのは1932(昭和 7)年である。 当初は今の位置より上流の女の湯にダムが予定されていたが翌 33 年になると水根沢 (現在の位置)に変更となり村の同意が求められた。当初の案では、貯水池が出来れば遊覧船・ボートが浮かんで都会の人たちの観光地となり下流の鶴の湯温泉も栄えるだろうといわれたが、水根沢の案では温泉が湖底に沈んでしまうので問題があった。しか し多くの貧しい村民にとっては、それよりも今年の作物は作って大丈夫か、養蚕は? 何時移転するのか、その補償費は?など日々の生活に直接かかわる問題が多かった。 ダムの建設に同意するならばなによりもその早い具体化と補償費の支払いが望まれた。

 ところが事態は村の人が思うようには進まなかった。多摩川下流の用水組合がダム建設に反対し、それをめぐる東京府と神奈川県の交渉が難航したために東京府は代替案を検討せざるを得なくなり小河内案の結論は遅れていった。諸問題が解決して村民にはじめて土地買収価格が提示されたのは1937(昭和12)年 3月、ダム計画に賛成してからすでに 4年半の年月が経っていた。ダム建設のための専用道路の建設がこの年から始まったが、村民は買収価格のあまりの安さに憤り、やがて大きな社会問題となっていった。 

 石川達三がこの小河内村とダムの問題を取り上げた 「日蔭の村」 330 枚の長編小説を雑誌 『新潮』 に一挙に掲載したのは1937(昭和12)年 9月である。石川は 「蒼氓(そうぼう)」 で第 1回 芥川賞を1935年に受賞した新進作家だった。彼はこの問題を府・市の役人、村の有力者、貧しい農民、村に入り込む高利貸の相関関係のなかに捉え、何よりも貧しい農民の目から社会の現実、ことの本質を明らめようとした。

 おそらく何回も足を運んだであろう当時の小河内村を石川は次のように描写している。
 
「このあたりでは人間は山に寄生する虫に過ぎない。山峡の水ぎわに小さくなって肩を押しならべて住みながら、材木を伐り出し、炭を焼き桑を植え柴を拾って、急な山の傾斜の上を這いまわりながら親子代々を過して来た。東京府西多摩郡小河内村、上流から数えて留浦(とずら)、川野、麦山、南、河内(こうち)、原、出野、熱海。少ないのは十二、三戸、多くても四、五十戸の小部落ばかりではあるが、原は一名湯場 ともいい鶴ノ湯ともいう鉱泉の湧くところで、戦国時代には武田信玄のかくし湯 の一つであったという。」
 
 貧しくとも穏やかであった村は、このダム問題以来村民は耕作も養蚕も、ようするに生活が宙に浮いた状態となり困窮を深めていった(農地改革以後の今の農村とは異なり 改革前の農村は地主制が支配的で農民の多数は貧しかった)。しかし事態は容易には解決しなかった。小説は、行政の冷淡な対応に憤激した村民多数が大挙して東京府・市へ陳情に押しかける1935(昭和10)年12月の事件を感動的に描き出す。小菅・丹波山の村民も加わって御岳駅(当時は終着駅)に向かって街道をひた走る村民たち、それを阻止しようとする警官隊との衝突、谷に落ちて怪我をする人たち、それでも駅から列車に乗ることの出来た村民は、山を越えて五日市から来た人たちと合流して都心に向かい陳情を実現した。

 この小説は発表当時からおびただしい伏字があったことに、石川達三がこのダム問題の真実に迫ろうとしていたことが窺われる。そしてもしこの小説を読んでからむかし道を歩くならば、あの静かな山道を冬の夜に大挙してひた走る村民の足音を、谷にこだまする声を想像することが出来るのではないだろうか。
 
 1938(昭和13)年に村と東京市の交渉が成立すると今度は村民は移転問題に忙殺された。近くに移転する者、近県に移転する者、なかには遠く満州に入植する者もいた。 工事専用道路の建設もすすめられたが、一方戦争は年々激しさを増し、1943年にはついにダム工事が中止となった。この年には都制がしかれて東京府・東京市が消滅した。 そして敗戦後の農地改革によって土地所有関係も様変わりした。こうした激変を経て 1948(昭和23)年に貯水池事業の再開が都議会で議決され、残された土地買収問題も解決して小河内村の解村式が行なわれたのは1951年 9月である。村が事業に賛成した1932年から実に19年間、村民はこのダム問題と時代に振り回されて大きな犠牲をはらって故郷を失ったといえよう。

  石川達三は小説の最後で1937年当時の情況を次のように締めくくった。
 
 「いま、渓谷に山々に若葉は茂り部落にはまっ白く梨の花が咲きさかっている。村人の内紛も抗争準備も無視して専用道路工事は日に日に進んで行きつつある。山の中腹にはトンネルの穴があきはじめた。工夫小舎からはさかんな炊事の煙があがり、鉄材を積んだ大型トラックは日に幾台となく東京からかけつけて来る。橋桁を造るコンクリートミキサーの唸り、酸素アセチレンの眼を射る光、灼熱した リベットを鉄材に打ちこむハンマのひびき、鶴嘴の音。日に幾度となく岩を爆破するハッパの響きは山から山へと鳴りとどろき、破壊された岩壁はすさまじい地鳴りを起して谷に雪崩れていく。山峡小河内の閑寂な昔の姿ははや見るかげもなくて、これにとってかわったものは騒音の渦であった。都会文明の勝利の歌、機械文明のかちどきの合唱であった。」
 
 
 
 
 むかし道から眺めた廃線跡-資材輸送専用鉄道の建設は1950年に始まり52年に完成してダム建設の膨大な資材が運ばれた。1957(昭和32)年11月についに小河内ダムが完成し、専用鉄道は西武鉄道に払い下げられて観光への利用がはかられたが実現 しなかった。また工事専用道路は1945年に一般道となり整備が進められて今日に至 り(国道411号)、以前の道は忘れられたような存在となった。そして1959年には鶴 の湯温泉の湖畔への引き上げに成功して再び温泉を楽しむことが実現した。こうした小河内村の苦難の歴史は 『奥多摩町誌』(歴史編、奥多摩町、1985年刊) に130ページに わたって、また湖底に沈む前の村の様子は写真集 『湖底の故郷』(奥多摩湖愛護会、1988 年刊) に詳しく記録されている。
 

 
 奥多摩むかし道は何も知らずに歩いても十分に楽しい魅力的なコースだ。春は春、 秋は秋の美しさをもって歩く人を迎えてくれるであろう。しかし廃線跡と国道とむかし道の織り成す歴史を知ればまた別の感慨をもって歩くことも出来よう。 湖畔で十分に休んだ私たちはバスに乗って奥多摩駅に向かった。バスでは前を歩いていた女性たちと一緒になった。私たちよりもだいぶ早く着いたが湖畔でのんびりしていたという。むかし道ではやはりあのトンネルがよかったと話していた。

 バスは20分ばかりで奥多摩駅に着いてしまう。女性たちは町の温泉もえぎの湯に向かったが私たちは駅前の小さな居酒屋「みやぎ」に腰を下ろした。奥多摩駅から帰るときにはいつも寄る店で、宮城県出身の女将や地元の客と話しながら飲めるのが気に入っている。今日は地元の名産ワサビの茎・シドケ・ワラビなどをつまみながら、剣道 7段の人と柳生に行ったときのことなどを話題にして飲んでいたら外は早くも暗くなっていた。

 中山集落近くの崩落場所はその後修復されて ”むかし道” はふたたび中山集落を通るコースとなったが、それからだいぶ経つ今はどうなっているだろうか。私は何回かその後もこの道を歩いているが中山集落へのきつい登りを敬遠して、バスで集落の下まで来てからむかし道を奥多摩駅まで歩くようにしている。それにしても新緑・紅葉の季節の眺めは忘れがたい。