4月13日は、石川啄木が亡くなって104年にあたる。
 1886 明治19年に岩手県に生まれた啄木は1912 明治45年4月13日に東京で亡くなった。わずか26歳の若さで病気と貧窮に苦しみ家族に、文学の仕事に、日本の将来に数々の思いを残してこの世を去った。
 
 歌集 『一握の砂』 で、またはその巻頭の歌 「東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる」 で知られる石川啄木だが、その晩年に影響を受けた友人に土岐善麿(哀果)がいた。彼は明治18年生れで啄木と同時代の青年だが、ローマ字 3行書きの歌集 『NAKIWARAI』 を1910 明治43年 4月に出した。同じく 3行書きの啄木の歌集 『一握の砂』 の刊行は同年12月である。また、啄木は朝日新聞社に勤務し、土岐は読売新聞社の記者であり、どちらも社会の動きに無関心な青年ではなかった。二人が明日の日本のために発行を準備したのが雑誌 『樹木と果実』 であったが印刷所との問題でついに発行には到らなかった。
 
 土岐は生家が浅草の等光寺であった関係で、彼は啄木とその母の葬儀の面倒をみるとともに妻節子と遺児にも何かと心を配った。後に 「あのころのわが貧しさに、いたましく、悲しく友を死なしめしかな」 と詠んでいる(歌集 『雑音の中』)
 

 
昨秋東京の古書店で偶然土岐哀果(善麿)の詩歌集 『不平なく』 を手に入れた。1913 大正27月春陽堂の発行である。文庫本を少し縦長にした小さい本だが、前年すなわち啄木の亡くなった直後から一年間に作られた詩歌が収められている。そこには啄木や妻節子にふれた歌をいく首もみることができ、あらためて土岐の友人啄木に対する思いの深さを感じたのであった。
 
やもめぐらし、海辺の/たそがれの涙を、遠く/寝ては、おもへり。
海は松ばらのかなたに、と、/さびしげな/手がみも、いつか、六月となる。
通ひ路の、朝のいさごの、/病室の窓に、あかるく/影をうつすかな。
肺を病むわかきやもめの/頬のいろの、あかく、さびしき/夏の昼かな
いさごかくれ、ちひさき萩のさくらむ。/雨のふる日は、/乳もほそるか。
慌しくつくりし遺著に、/三つふたつ、誤植のありぬ、/さびしき六月
病みつつ貧しきばかり、悲しきは/あらずと、遂に/いひこせしかな。
ふるさとの父のおくれる手がみまで/封じて、われを/泣かしむるかな。
函館の姉を便りて、ゆかむとや。/かなしくも、心、/きめしものかな。
行きしとき、/かへらむときも、また逢はずば、いかに悲しき。/露草のさく。
遺されし、赤き表帋の、五六冊。/かびの湿りを、/指にぬぐへり。
卓上の、友の遺稿のひとかさね、/いまだ調べず、――/いそがしき、わが日ごとかな。
函館の青柳町に住むといふ/亡き友の妻の/文の来ぬ、冬。
死ぬばかり痩せたりし児の/すこやかに育つとや、/雪の、ふりくらす街に。
あづかりし金をおくれる/そのときより、またたよりなし。/世は、冬となる。
枕もとのザボンにむかひて、/ぽつねんと、/病みほけし友が、かんがへし事。
わが友が病院にゐたりし、/まだ生きて/ゐたりしころの、桜がさけり。
そのしうちに腹はたてにしが、/桜さき、/病むといふなり、なきともの妻。
いつかは、かくなるべしと/おもひにき、/かれの死にしも、四月なりけり。
かの女も、遂に死ぬかや。――/東京は、/さくらの花のややさくといふに。
公園を前にせる家、/その小家に、いかに病むらむ、/まだ、雪の、ふるといふ。
 
啄木の死後病気療養のため房総に移った妻節子は女児を出産したが 9月には 2人の遺児と共に両親の住む函館に帰った。節子は 「世の中が本当にいやになりました。なぜ夫は私どもをのこして死んだのでせう」(明治45年 7月と土岐宛の手紙で嘆いているが、上の 「病みつつ…」 の歌はそうした事情を伝えるものであろう。しかし節子の病気はすでに進行しており、翌大正 2年 5月に函館の病院で亡くなった。肺結核はわずか一年ほどの間に啄木を始め妻・母と三人の命を奪ったのである。
 
この2月にドナルド・キーンの評伝 『石川啄木』 が刊行された。300ページを超える大冊である。90歳を超える著者は啄木に何を見たのだろうか。明治とともに逝った啄木は没後100年を超えた今も私たちに問いかけているのではないだろうか。日本の現状と将来について。
 
石川啄木の晩年にゆかりのある場所を訪ねて、彼の苦悩と死と友人たちの姿を偲んだ。
 

 
 喜 之 床 (文京区本郷 2-38-9)
 
 
啄木が一人住まいの下宿から本郷の理髪店喜之床の 2階に越して来たのは1909 明治42年 6月のことだった。函館に置いてきた家族が上京して一緒に住むことになったからである。この理髪店(店主新井こう)は、関東大震災や戦災を免れて戦後まで健在だったが大通り(春日通)の拡幅に伴い改築することになり、1978 昭和53年 5月に解体され、1980 昭和55年に愛知県犬山の明治村に移築された。私は公開されて少し経った頃に明治村でこの建物を見た記憶がある。建築当初の姿に復元されて店の中には古そうな椅子や鋏などが置かれており、2階への出入口は左手にあった。しかし、人の気配も街の雰囲気も感じられない建物はどうしても標本を見ているようなものだった。
 
 喜之床のあった所へ行ってみた。本郷 2-38(啄木の頃は本郷弓町)はほとんどが中学校の敷地となっており、残りは駐車場とわずかの家が建つのみだ。私は喜之床跡地に説明板でもあればよいほうだとあまり期待しないで探したところ、なんと大通りに面した角に新井理髪店が今も営業しているではないか。しかも出入口の脇の壁に説明板があるので間違いない。啄木が生活をしていた当時の場所に今もその理髪店の子孫が営業しているのを知り、思いがけないことだったので私は感動した。関東大震災と戦災を受け、しかも人の出入りの激しい東京でもこんなことがあるのだと思った。啄木の頃の喜之床のようすは写真で見ることが出来る。『新潮日本文学アルバム 石川啄木』(1984年) を見ると、道に面したガラス戸の上には 「喜之床 新井」 と書いた大きな看板がついている。また、看板に 「喜之床 理髪舗 あら井」 とあるおそらく戦前の建物のようすと通りの雰囲気を伝える写真が、吉田孤羊の 『決定版 啄木写真帖』(芳賀書店、昭和29年)にある。
 
 ところで、戦後間もない頃の喜之床のようすを書いた文章がある。文学散歩の元祖とも言うべき野田宇太郎の 『新東京文学散歩』(角川文庫、昭和27年)で、その続篇(昭和28年)で喜之床について、昔の建物の前面だけを今風に直して理髪店をやっているが聞いて見るともう啄木のいたころを知る人は亡くなっており、2階も生活の場なので見せてもらうわけにいかないといかにも残念そうに書いている。しかし店の前の通りは戦前の街のようすをよく残していると書いている。だが、現在は古そうな建物は皆無でこうした街の雰囲気を感じることは出来ない。同書の文章や地図によると喜之床は都電の走る大通りから少し入ったところに位置しているので、道路を拡幅したために今は大通り面することになったのであろう。
 
 昔の喜之床は真砂町の小学校前から電車通りを横切って弓町を貫通するその道路の、電車道から入ってすぐ左側にある。今は名前も 「バーバー・アライ」 と変り、表の装飾もすっかり当世風である。(中略)この喜之床の前の通りは、殆ど明治以来災害をうけてゐない。その町のたたずまひの中に凝っと立ってゐると、古風な一種の落着いた明治の匂ひのやうなものが漂って来る。そして喜之床をふりかへる。やはり啄木がその二階から今にも顔を出すのぢゃないかと思はれる。理髪屋の当世風の表の模様は、その明治調につけた仮面に過ぎないやうである。理髪の店の、向って左端に約三尺幅の古風な硝子の開き戸がある。今でもこの家の唯一の勝手には違ひないが、それは古風な、と云ふよりも粗末な在り来りなと云った方がよいのかも知れない。そこが二階借りの啄木一家の日常の出入口であったことは、調べるまでもなくすぐに判る。(中略)標識一つあるわけでもなく、これ又公共の力が加ってゐるわけでもない。「幸ひに」 焼け残ったと云ふだけであって、何時又どんなことが起きてそれは地上から姿を消すかも計り難い。日本の文学遺跡とはそんなはかないものである。(中略)現実に残ってゐるこの喜之床を何とか啄木を永久に偲ぶ記念の家として保存することに、もうすこし努力したらよからう、と私は思った。(野田宇太郎)
 
  この喜之床が後年遠くの明治村に保存されることになり、この野田の思いは実現したといえるが、本当は本郷のこの地にといった願いだったのではないだろうか。私の脳裏には、あの大阪淀屋橋のビル街の中に、昔の場所に昔のままの姿で保存され公開されている緒方洪庵の適塾(江戸時代)の姿が思い浮かんだ。
 

 
 
了 源 寺 (台東区元浅草 3-17-5)
 
 
本郷喜之床における 2年余の石川啄木は、大逆事件にみられる日本の現実に関心を深めつつ 「食ふべき詩(弓町より)」 「時代閉塞の現状」 などを執筆し、また初めての歌集 『一握の砂』 を出版して注目された。しかし、家庭的には相変わらずの貧窮、家族間の不和・病気に苦しみが深まっていった。
 
 こうした暗い日々に明るさをもたらしたのは長男眞一の誕生だった。1910 明治43年10月 4日のことである。その喜びを知らせる宮崎郁雨宛の手紙に啄木は、「真白なる大根の根のこころよく肥ゆる頃なり男生れぬ」 「十月の朝の空気に新しく息吸ひそめしすこやかの児よ」 「十月の産病院のしめりたる長き廊下のゆきかへりかな」 の 3首の歌を添えた。長男の誕生を喜ぶ父親の気持が伝わってくる。

 しかし退院後の母子の健康は勝れず、ついに10月27日深更に長男は亡くなってしまった。さきに喜びを知らせた宮崎郁雨に当てて、啄木は今度は悲しい知らせを書かねばならなかった。
 
拝啓 長男眞一事兎角発育思はしからず加養に手を尽し居り候ひし処遂にその効なく昨夜零時半死亡仕候。当夜は夜勤のため深更帰宅致候ひしに、今二分間許り前に脈がきれたといふところにて、早速かかりつけの医師を迎へ注射を乞ひ候ひしも何の反応なかりし次第、その時はまだ体温生時と変らず何うしても死んだとは思はれざりし事に御座候。一家の愁嘆お察し被下度、僅か二十四日の間この世の光を見た丈にて永久に閉ぢたる眼のたとへがたくいとしく存候。葬儀は明二十九日浅草永住町了源寺と申す寺にて相営むべく、先は不取敢御知らせまでかくの如くに御座候。早々
 
 この頃啄木は最初の歌集 『一握の砂』 の校正にあたっていたが、長男の死を悼む挽歌 7首を歌集の最後に付け加えた。

 夜おそくつとめ先よりかへり来て 今死にしてふ児を抱けるかな
 二三こゑいまはのきはに微かにも 泣きしといふになみだ誘はる
 真白なる大根の根の肥ゆる頃 うまれてやがて死にし児のあり
 おそ秋の空気を三尺四方ばかり 吸ひてわが児の死にゆきしかな
 死にし児の胸に注射の針を刺す 医者の手もとにあつまる心
 底知れぬ謎に対ひてあるごとし 死児のひたひにまたも手をやる
 かなしみの強くいたらぬさびしさよ わが児のからだ冷えてゆけども

 また巻頭には宮崎郁雨・金田一京助への献辞に続けて、「また一本をとりて亡児眞一に手向く。この集の稿本を書肆の手に渡したるは汝の生れたる朝なりき。この集の稿料は汝の薬餌となりたり。而してこの集の見本刷を予の閲したるは汝の火葬の夜なりき」 と書いた。

 わが子を失った父親啄木のこの悲しみが本当に分かるように思ったのは、私自身が親となってわが子の大病を経験した後だった。

 啄木の日記には、この時期の記述が欠けているが、翌明治44年の日記に 「前年中 重要記事」 として書かれた一部に 「二十九日浅草区永住町了源寺に葬儀を営み、同夜市外町屋火葬場に送りて荼毘に附す。翌三十日同寺新井家の墓域を借りて仮りに納骨す。法名 法夢孩児位。会葬者、並木武雄、丸谷喜市二君及び与謝野寛氏」 とある。喜之床の新井家の世話になったことが分かる。歌集 『一握の砂』 の稿料20円はかくて右から左へと消えていったのだった。
 
 都営地下鉄大江戸線の新御徒町駅・蔵前駅間の北には小さな寺が集まっている広い寺町があるが、その中の一つに了源寺(浄土宗) がある。私が訪ねた時には境内は人の気配もなく静まりかえっていた。もちろん啄木の長男の葬儀に関する説明板などはなかった。
 

 
(つい)の住まい (文京区小石川 5-11-7)
 
 
石川啄木が最期を迎えることとなった小石川(当時は久堅町)の家に引越したのは 1911 明治44年 8月だった。喜之床の貸間での 2年余の家族 5人の生活は、貧窮と家族の不和と病気の連続といえる。その上明治44年 1月には、啄木自身が東京帝大病院で慢性腹膜炎と診断されて手術のために 1ヶ月間入院し、退院後も発熱に悩まされて新聞社への出社もままならない身となってしまった。母親はもともとからだの具合がよくない上に妻も伝染性の病気と診断され、まさに病人ばかりの一家となってしまった。こうした啄木一家のようすは、伝染性の病気への警戒心もあっておそらく愛想をつかされたのだろう、喜之床から出て行くことを求められて、やむを得ず気を使わなくてもよい貸家への転居を決めた。引越しにかかわる費用はまたも宮崎郁雨の好意に助けられたのだった(当時郁雨は啄木の妻の妹と結婚していたので啄木とは義兄弟の関係にあった)

 病身の妻節子が探してきた貸家に引越したのは 8月 7日である。啄木は郁雨に、「十一時頃に京子と二人俥に乗って此処へ来て、俥から下りるとまた直ぐ畳の上に横になった。場所は静かだし、あたりに木も沢山ある。昨夜は座敷から正面の立木の上に月が上った。室は玄関の三畳に八畳六畳の三室、外に台所、水は井戸だから少し不便乍ら小さくても門がある。家賃九円敷金は二ヶ月分」 と書送った。
 
 この貸家のあった場所を尋ねてみた。池袋から地下鉄丸の内線に乗り茗荷谷駅で下車して南に歩くと桜並木のある播磨坂の上に出る。広い坂道を半分くらい下って左に曲がり少し行ったところに旧居跡はあった。あまり大きくはないマンションの一階に宇津木産業という会社があり、その入口脇の壁に説明板があったのですぐに分かった。しかし、『新潮 日本文学アルバム』 に写真のある 「石川啄木終焉之地」 と彫った石碑は見当らなかった。たまたま会社から出てきた女性に尋ねたところ、その方は昔啄木に家を貸した宇津木家のご子孫にあたり、この辺り一帯が同家の土地で、「啄木に貸した家はこの辺りにあったと聞いています」 と会社の入口のすぐ前の辺りを指さした。喜之床と同じようにここでも啄木と縁のあった人がそのまま今も住み続けていることに驚いた。石碑は折れたのでその代りにこの説明板が出来たそうで、そこには 「平成 二〇年十二月設置 東京都教育委員会」 と書いてあった。
 
 播磨坂は江戸時代に松平播磨守の上屋敷がこの辺りにあったので坂の名になったそうだが、坂を下りきった向うの台地には小石川植物園が広がっている。付近は大通りを除けば車があまり通らない静かな住宅地で緑も多い。啄木一家が住んだ頃のこの辺りのようすは、『新潮日本文学アルバム』 や 『決定版 啄木写真帖』 に載っているおそらく大正か昭和初めころの写真で偲ぶことができる。木造平屋の家が建ち並ぶ静かな住宅地だったようである。
 
 新しい住まいに移った啄木一家に平穏な生活が訪れたのだろうか。
 残念ながらそうはならなかった。啄木研究家岩城之徳の書いた年譜には 「九月三日 一家の窮状と感情的不和が募り父一禎、北海道帝国鉄道管理局手宮駅長の女婿山本千三郎を頼って再び家出。この月家庭のトラブルがもとで、親友であり義弟でもある宮崎郁雨と義絶する」 とある。
 
 翌年の1月になると母カツが吐血。診察の結果病勢のすすんだ肺結核であることが分かり、啄木の心配は深い絶望に変った。23日の日記に 「母の病気が分ったと同時に、現在私の家を包んでゐる不幸の原因も分ったやうなものである。私は今日といふ今日こそ自分が全く絶望の境にゐることを承認せざるを得なかった。私には母をなるべく長く生かしたい希望と、長く生きられては困るといふ心とが、同時に働いてゐる…」 とその心境を書いている。

 啄木の没後出された歌集 『悲しき玩具』 に収められた当時の歌から 2首。

 わが病の その因るところ深く且つ遠きを思ふ。 目をとぢて思ふ。
 かなしくも、 病いゆるを願はざる心我に在り。 何の心ぞ。
 

 
 
等 光 寺 (台東区西浅草 1-6-1)
 

 浅草の寺町の一角、東本願寺の近くにある等光寺(真宗)は啄木の晩年の友人土岐善麿(哀果)の兄が住職をしていた寺である。本堂と庫裏と墓地だけの小さなお寺だが、その狭い境内に窮屈そうに啄木の歌碑があった。この寺は啄木の母カツと啄木の葬儀が行なわれたところだ。

  
 
  歌碑は、わりと大きな黒御影石を L字形に組み合わせて 「浅草の夜のにぎはひにまぎれ入りまぎれ出で来しさびしき心」 の歌を活字体の文字で彫り、顔のレリーフが添えられている。啄木の生誕70年を記念して1955 昭和30年に建てられたと説明にあった。

   この寺の入口には土岐と書いた表札があるので、土岐善麿につながる方が今も住職をしておられるのだろう。変化の激しい東京なのに、啄木ゆかりの場所には今もゆかりのある方々が住んでおられるのを知りなにやら不思議な思いになった。
 
 啄木の母カツは 3月 7日に亡くなった。そのわずか 1ヶ月後の 4月13日に啄木も帰らぬ人となった。13日の早朝、危篤の知らせを受けた友人金田一京助と若山牧水が家に駆けつけた時にはまだ啄木は話ができる状態だった。安心した金田一が勤めに出てしばらくすると 容態が急変して 9時30分に息を引取った。枕元に居たのは妻と父、それに牧水の 3人だけだった。石川啄木の臨終のようすについては、牧水の 「石川啄木君と僕」 「石川啄木の臨終」 「石川啄木君の歌」 といった文章に詳しいのでそちらを読んでいただきたい(『若山牧水随筆集』 講談社文芸文庫所収)

 啄木晩年の日記と手紙をあらためて読んだ。啄木は辛い病状にありながら薬を飲んで安静に過すこともかなわず、死ぬ直前まで金のやりくりの心配を続け、あれこれの出来事に対処し、一方では大逆事件に示された日本の現実を見つめて将来への思いを めぐらして行動に移そうとし、文章を書き、詩を歌を作った。こうした啄木の姿に思いを馳せるとき、「私は永く彼の顔を見ていられなかった。よく安らかに眠れる如くという風のことをいうが、彼の死顔はそんなでなかった」(「石 川啄木の臨終」)という牧水の文章の一節に激しく心が痛んだ。
 
 石川啄木の葬儀は15日の10時より等光寺で営まれた。会葬者は新聞社の関係者をいれて 4、50名、その中には夏目漱石・佐々木信綱・北原白秋・木下杢太郎らの顔があった。遺骨は等光寺に埋葬された。土岐善麿は、「今は等光寺も関東大震災に全焼したのと、区画整理になって、本堂の構へも墓地の所在も、すっかり変ったが、啄木の遺骨は墓地の中央、大きな柿の根もとにある一基の墓石の下に納めたのである」 と書 いている(「死、葬儀、遺骨」 昭和 3年)。 啄木の遺骨は翌年 3月に函館に移されて立待岬に造られた一族の墓に葬られたが、妻節子はその直後の 5月 5日に肺結核のために函館の病院で啄木を追うように亡くなった。